恋は人を変えるという(短編集)




 それにしても暑い。深く息を吐いて額の汗を拭う。営業職で普段から歩き回っているとはいえ、八年ぶりのこの坂は正直足にくる。どうして坂の頂上にある高校を選んでしまったのか、後悔したことは一度や二度ではない。夏は炎天下、冬は雪の中、雨の日は合羽を着て自転車を漕ぐのは地獄だったが、今じゃこれも良い思い出かもしれない。

 ふと見ると、校門の前に女の人が立っていた。あの人も野球観戦に来たんだろうけど、この時間じゃもう大遅刻だ。遅刻ついでに思い出を振り返っているのだろうか。仲間がいた。思わずにやける頬を撫でながら横断歩道を渡る、と。

 僕の足音に気付いた女性が振り返り、そして呟くように「こ、ばやしくん」と僕の名前を呼んだのだった。

 驚いて改めて女性の顔を見る。可愛い顔をした人だった。目がぱっちりしていて、黒く長い髪を後ろでひとつにまとめている。そして尋常じゃないくらい汗だくだ。年は僕と同じくらいだろうが、誰だろう。

 数秒間を置くと、頭の中に一人の女の子の顔が浮かんだ。それは今日会いたかった人の顔だった。

「どちらさまですか?」

 予想が外れたら申し訳ないからそう答えてみると、女性は肩を落として気まずそうな顔をした。伏せた目と俯いた顔の感じは見覚えがある。当時親しくもないただのクラスメイトだった僕が、よく見ていた角度だった。この人は、今日僕が会いたかった人だと確信した。

「うそうそ、憶えてるよ、笹井さん」

 ふっと笑ってそう言っても、彼女は気まずそうな顔のまま。でも僕をしっかりと見上げてくれた。僕は嬉しさを隠すように彼女の隣に立って腕時計に目をやる。

「試合?」

「うん、そう、甲子園」

「もうとっくに始まってるよ」

「小林くんこそ」

「寝坊して」

「わたしもだよ」

「笹井さんが遅刻するイメージないけど」

「ゆうべ遅くて」

「デート?」

「まさか。仕事」

 まさか。学生の頃ほとんど話したことがない笹井さんと、こんなに普通に会話ができるなんて。まあ僕も彼女も二十代半ば。まだ十代だったあの頃とは違う。それだけ大人になったということだろう。

 それにしても彼女の汗が凄い。聞けば駅の裏にある駐車場に停めろと連絡があり、そこから歩いて来たらしい。結構な距離だ。町民体育館の貼り紙を見つけなければコンビニの駐車場に停めようとしていた僕とは大違いだ。

 そんな真面目で素直な彼女が無性に可愛く思えて、くつくつ笑いながら手の甲で彼女の額の汗を拭ってやり、行こうかと促した。




 並んで校門をくぐり、昇降口まで続くゆるやかな坂を上っていく。

 歩幅が狭く、しかも汗だくで疲れているであろう彼女のためにゆっくり歩きながら、こっそり隣を盗み見た。

 髪が伸びたせいか化粧をしているせいか、それとも初めて私服を見たせいか。あの頃とはまるで別人のようだ。背もこんなに低かったっけ。声もこんなに柔らかかったっけ。会話をする度蘇る記憶を懐かしみながら、今得た情報を記憶していく。

 彼女と一緒に第一体育館や駐輪場を見て、昔あった数々の出来事を思い出していく。自転車逆さま事件やくまさん事件……。事件と呼ぶにはあまりにも些細なことだったけれど、高校生の日常で少し変わったことが起こればそれはもう大事件。しかも全て犯人が分からず仕舞いだった。彼女と僕には共通の思い出はほとんどないから、学生時代の話をしようとすると自然とこういう内容になってしまうのだ。

 職員玄関に辿り着き、彼女が事務室のガラス戸をたたく。出て来た用務員さんは僕たちが在学中お世話になったひとだった。見慣れぬ白髪頭に時の流れを感じる。最初は来客用の事務的な対応をしていた用務員さんだったけれど、僕たちが用紙に書いた名前を見ると、嬉しそうに「思い出した、文芸部の笹井さんと、遅刻魔の小林くんか!」と言って笑った。

 できればそれは思い出してほしくなかった。苦笑したけれど、彼女が柔らかい笑顔で僕を見上げたから、僕もつられて笑ってしまった。


 ぱたぱたとスリッパを鳴らしながら野球観戦が行われている三階の合同講義室に向かった。声援は外まで聞こえていて、充分盛り上がっているということは分かっていたが、近くで見ると凄い迫力だ。卒業生や在校生が数十人、うちわやメガホンを持って大型テレビの中の球児たちに声援を送っている。

 見知らぬ人たちが一体となっている光景は感動的だけど、とても入っていける雰囲気ではなかった。この人たちのボルテージは最高潮。一方遅刻してきた僕たちはゼロからのスタート。ここに何食わぬ顔で紛れ込み、わーきゃー騒ぐというのは想像できなかった。

 僕の前に立って教室を覗き込んでいた彼女も、同じことを考えていたようだった。困ったような顔で僕を見上げるから「少し、話さない?」と誘った。彼女は静かに頷いた。


 これはチャンスだと思った。むしろチャンスでしかなかった。

 もし今日会えたのなら八年温めていた笑い話をしようと思っていたけれど、まさか本当に会えるとは。僕と同じように遅刻をし、せっかく野球の応援に来たのに中に入れず、ふたりで話すことになろうとは。こんな機会はもう二度とないかもしれない。笑い話をするなら今日しかないのだ。




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