恋は人を変えるという(短編集)
四階、一年五組。三年間で唯一クラスメイトだった教室までやってきて、どこの席だったとか授業中こんなだったとか。取りとめのない、でも凄く心地の良い雑談をした。
「十年も前のことなんてもう思い出せないと思っていたけど、少しのきっかけで思い出すもんだよね」
あの日のことを懐かしみながら呟くと、今が話を切り出すタイミングだと思った。彼女とも大分打ち解けた。今ならきっと笑い合える。数少ない、彼女と僕の共通の話題だ。
「笹井さん」
彼女の名を呼びながら振り返る。彼女は僕を見てにっこり笑ったけど、僕が教卓のすぐ前の席に腰を下ろし「一年の秋くらいに、俺がこの席だったの憶えてる?」と聞くと、急に目線をさ迷わせた。
少しの間の後「憶えてるよ」と答えたから、僕は安心して続きを話す。
「ある朝登校したら、俺の机にでっかく馬って書いてあってさ」
「うん」
「誰がやったか不明の未解決事件だったけどさ」
「うん」
「犯人は笹井さんでしょ?」
「へ?」
彼女は瞬きもせず、驚いた顔で僕を見ている。犯人、なんて大それた単語を使ってしまったせいで、予想以上に彼女を動揺させてしまったようだ。その様子さえ可愛く思えてしまう僕は、意地が悪いのだろうか。
動揺しながらも彼女は、こくりと頷く。それこそ、自供した犯人のように。
「いや、あの、その節は申し訳ございませんでした……」
心からの謝罪だったけれど、僕は顔がにやけてしまって、それを隠しながら隣の席をぽんぽんたたいた。彼女は素直にその席に移動してくる。
「いいよ、消すの大変だったけど」
「本当に申し訳ございません、つい出来心で……」
まるで自供した犯人そのものだ。
落ち込む彼女を見つめながら、僕はあの時のことを話し始めた。
十年前。十六歳、高校一年生。登校すると、机にでかでかと字が書いてあった。馬、と。意味も、誰がやったのかも分からなかったし、友人たちは笑うだけで消すのを手伝ってくれないし、消しゴムは真っ黒になるし、散々な日だった。
ようやくその意味を理解したのは数ヶ月後。当時付き合っていた彼女――岡崎が、明るくて可愛いムードメーカーではないと気付いたとき。彼女の我が儘を全て聞き、宿題を見せ勉強を教え、昼食や学校帰りの買い物代を全て払い、友人たちの悪口や噂話を聞かされ続け、上辺だけを見て告白した自分が馬鹿だったと自嘲したとき。はっと気付いた。あれは馬鹿の「馬」だったのか、と。
岡崎とはその後すぐに別れたが、気になるのはあの落書きをした人物の正体。あんなに濃い鉛筆を持っている人物を探し出せばいいのだけれど、同級生全員のペンケースを覗くわけにもいかず、特定は半ば諦めていた。
ようやく見つけたのは高校二年の冬。しかも偶然の出来事だった。通りかかった教室から「笹井さん美術部でもないのになんで4Bの鉛筆使ってるの」という声が聞こえた。
一年生のとき同じクラスだった笹井さんのことを思い返してみると、他の子よりも落ち着いていて、一歩引いて周りをじっくり見ているような子だった。なるほど、彼女なら岡崎の本性も気付いていただろう。
でもクラスも離れて接点なんて全くなくなってしまったし、何と話しかければいいのか分からない。考えているうちに二年生が終わり、三年生になった。三年生でもクラスが離れ、話しかけるタイミングを計っているうちに本格的な受験シーズンになって忙しくなった。話しかけることすらできない僕は、やはり馬鹿だと思った。
そして高校生活最後の日。いつもより早く登校して、あらかじめ調べておいた彼女の下駄箱に紙を入れた。鹿、と。一文字だけ書かれた紙。ゆうべ二時間かけて書いた明朝体の鹿だ。あの時馬鹿だと伝えてくれたお礼と、難しすぎる暗号を出したきみは馬鹿だという意味をこめて。
彼女はこの意味に気付いてくれるだろうか。
下駄箱の扉を閉めると、なんだかひどく脱力した。まるで失恋でもしたような気分だった。