婚約者はホスト!?⑤~愛しい君へ~
「ここか…」
『黒澤法律事務所』と書かれた看板を見上げながら、圭司がそう呟いた。
「うん このビルの5階みたい…」
私は香奈子さんから渡された名刺を握りながら、そう答えた。
………
「今日はお休みのところ、わざわざすみません。私、永岡の代理人をしています黒澤と申します。」
銀縁の眼鏡をかけた弁護士が、私達の前に名刺を差し出した。
彼は香奈子さんのご主人の古くからの友人らしく、離婚の手続きも全て彼が任されているのだそうだ。
「早速ですが… 離婚届の方を拝見させて下さい」
いきなり話が本題に入った。
香奈子さんも言っていたけれど、ご主人側は相当急いでいるようだ。
「その前に… 少し事情を伺ってもよろしいですか?」
圭司の言葉に、黒澤弁護士が顔をしかめた。
「事情?」
「ええ ご主人が、なぜ愛人と浮気したフリまでして離婚をしようとしているのか… その辺の事情を…」
「おっしゃっている意味がよく分かりませんが…」
「そうですか まあ、理由はだいたい分かってるので結構です… ただ、せっかくご主人が奥さんの為に残そうとしてるあのマンションも… 既に占有屋から目をつけられているのご存じですか? このままじゃ、スムーズに奥さんのものには、ならないかもしれませんね。」
「いや、あそこは抵当権もついてないし、自己破産前に奥さん名義にさえすれば何の問題も…」
黒澤弁護士は、ハッとしたように口を押さえた。
そんな彼を見て、圭司がフッと微笑んだ。
これは圭司の誘導尋問だ。
「やはり、そういう事でしたか…」
これで、ようやく真相が見えた。
恐らく、圭司が昨夜言っていた通りで間違いないだろう。
香奈子さんのご主人は会社の業績悪化で、近々自己破産を余儀なくされ、二ヶ月前に離婚を決意した。
ご主人は香奈子さんに離婚を受け入れさせる為、愛人との浮気を装い、慰謝料としてあのマンションを請求するように仕向けた。
何もかも失うご主人が、唯一香奈子さんに残せるのは、どこの担保にも入っていないあのマンションだけだったからだ。
けれど、香奈子さんがなかなか離婚に承諾しない為、このままだと自己破産が先となり、あのマンションは差し押さえられてしまう…
そして、そのタイムリミットが今日だったのだ…。
黒澤弁護士は観念したようにこう言った。
「そこまでご存じなら、早く離婚届を出して下さい。週明けには自己破産してしまう… もう、時間がないんです」
「じゃあ、本人と話させて下さい… 奥さんのことで直接お伝えしたいことがあります…」
「永岡は日本にはいませんよ… 何かあれば、私が代わりに聞きますけど…」
「いえ そこのドアで聞き耳を立ててるの… あれ ご主人なんじゃありませんか?」
圭司の言葉にドアの方を見ると、確かに、すりガラスの部分に黒い人影が映っている。
「いや… あれは… うちの事務員ですよ。」
黒澤弁護士が気まずそうに答えた時、『ガチャ』とドアが開き、一人の男が私達に向かって頭を下げた。
「香奈子の… 夫です…」
………
香奈子さんのご主人は黒澤弁護士の隣に腰掛けると、弱々しい声でこう呟いた。
「それで、あの… 妻のことで私に伝えたいこと…って何でしょうか?」
見た目は真面目そうで、のび太くんのようなご主人…。
確かに、愛人と浮気して、妻を容赦なく捨てるような男にはとても見えない。
「はい 香奈子さんは、あなたの子を妊娠しています」
「えっ 妊娠!? 香奈子は妊娠してるんですか!」
よほど衝撃的だったのだろう…
彼は口を開けたまま固まっていた。
「はい、2カ月だそうですが… 実は昨夜、流産しかけて入院しています。ストレスが原因だそうですよ。」
「そっ そんな…」
「それから、悠真くんも… 寝言で何度もあなたのことを呼び続けていました… 永岡さん、あなたは家族を守っているつもりかもしれませんが、結局、奥さんやお子さんの心に、深い傷を負わせてるだけなんじゃないですか? こんなやり方で、」
「仕方がないんだ! 社長じゃなくなった上、自己破産する私に、香奈子の夫でいられる資格なんてないんだから」
香奈子さんのご主人は頭を抱えながら、そう叫んだ。
「でも、それは、夫婦で話し合って決めることなんじゃないんですか? いくら自己破産するからって、勝手に離婚だなんて… これじゃ、香奈子さんが可哀想すぎます!」
あまり口を出すなと言われていたけれど、私も、もう我慢できなかった。