彼女は世界滅亡を描く。
たった一ヶ月前のことだ。
あの日は土曜日だった。
梅雨でもないのに2日前から雨が降り続いていて、そのせいで私はひどい頭痛に悩まされていた。日付が変わって土曜日になり、夜中の2時を過ぎた頃、寝れないのだから仕方がないとベッドから抜け出したことを覚えている。
ほんの少し、近くを散歩するつもりだった。
靴を履いて、玄関の扉を開けた瞬間にそれはかなわなくなってしまったのだけれど。
玄関先で傘をさした途端に、家の前を通った一台の車にクラクションを鳴らされた。
「こんな時間に何してんだ!早く家に戻りなさい!!」
窓から顔を出して怒鳴るその人に見覚えがあって、私は車を見つめる。
私の指先からは馬鹿みたいによく光る蛍光塗料が溶け出していた。
「…ウリワリ?」
声を荒げた本人も私に気付いて車を止める。
「先生でも、そんな風に怒るんですね。」
私が笑うと少し照れたようにバツの悪そうな顔をして、彼は車を降りた。傘を差し出すと、困ったようにこちらを見る。
「…こんな時間に何してるの。」
極めて冷静を装ってそんな風に尋ねるのだから可笑しいと思ったのを覚えている。
「先生こそ。」
「俺は、連日の雨で街が危険な状態になってるから、下校時刻とか夜とか生徒の安全を見回ってくれって上の人から言われてんの。一番海沿いの地域の担当になってさ。」
「こんな遅い時間に?」
「今日はたまたま用事があって帰るの遅くなっちゃったんだよ。」
「…へぇ。用事…。」
にやにやと私が彼を見つめると、何も言っていないのに彼は慌てふためいた。
「俺の話はいいから!ウリワリは何してたの。こんな時間に、しかも雨の中。」
「最近の雨で頭痛が酷くて不眠症気味なんですよ。だから、少しだけ散歩して帰るつもりでした。」
正直にそう答えると、少し驚いたように彼は私を見た。
「蛍光塗料、こぼしていけば迷子になることもないし、何かあっても手掛かりにはなると思ったんですけど。」
手からぽたぽたと落ちて、道路に斑点模様を描く塗料を彼に見せると、彼は馬鹿だなぁ、と笑った。
「そんなんじゃ、手掛かりにはならないよ。」
「連れ去った人の車のナンバーくらいは道路にかけますよ。」
ほら、と彼の車のナンバーを道路に書くと、彼は少し慌ててそれを私に消すよう求めた。
なんてことのない、そんな会話だったと思う。
それから何分ほど話していただろうか。
雨が強くなってきたな、なんて会話をしていた矢先だった。耳をつんざくような、ドンという地響きが一度聞こえたかと思うと、ズズズと地鳴りが街全体を包む。
その後は一瞬だった。
彼が私の手をひいて車の中に乗せたかと思うと、私の意見など聞かずに彼は車のアクセルを踏んだ。シートベルトなんてする暇なく揺れる車内に頭をぶつけながら凄いスピードで窓の向こうを景色が流れていく。
彼は私が呆然としている間にも、ガチャガチャとレバーやハンドルを忙しなく動かして山道を登っていた。
私がようやくシートベルトをしめて私の左側にあったバーを掴んだ時には、もう家から随分離れた学校の側まで山を登っていたように思う。
後ろを振り返ろうと体をよじった瞬間だった。
私を彼の手が制する。
「ウリワリ、山の頂上につくまで絶対に振り返るな。」
聞いたことのない、低くて冷たい声だった。
まるでその声に支配されたみたいに、私は体を硬直させてゆっくりと視線をフロントガラスに戻す。
きっと、無意識に私は分かっていたのだ。
自分の身に起こったことや、街のこれからを。
ドン、と再び大きな音が聞こえて、彼は小さく舌打ちした。彼のレバーを握っていた手が車のステレオ部に伸びたかと思うと、スピーカーは大きな音で音楽を鳴らし始める。
あの時流れたのは、なんて曲だっただろうか。もう何十年も前に流行したアーティストの曲だったように思う。イントロを奏でる優しいアコースティックギターの音が、煩すぎるほど車内によく響いていた。
山をいくつ越えたか、ようやく日が昇り始めると、彼は車のスピードを落として、どこともわからぬその場所に車を止めた。少し行ったところにコンビニが見えたことは覚えているけれど、そこで何日くらい過ごしていたのかはもう思い出せない。彼と話をしたかどうかも、何を口に入れたのかさえ。
「一度、街に戻るよ。」
彼がそう口を開いたのは、雨が止んでしばらくたった日のことだった。
「…怖い……。」
小さく首を振ると、彼は私の涙が止まるのを待って呟いた。
「…それでも、生きていかなきゃいけないんだ。」
だから、行こう。
彼はその後はもう私の意見を聞かなかった。
エンジンのかかる音が車内に響く。
そして、何時間もかけてきた道をもどった私たちが山の頂上近くから見下ろしたそこには、青く輝く海があった。
あの日は土曜日だった。
梅雨でもないのに2日前から雨が降り続いていて、そのせいで私はひどい頭痛に悩まされていた。日付が変わって土曜日になり、夜中の2時を過ぎた頃、寝れないのだから仕方がないとベッドから抜け出したことを覚えている。
ほんの少し、近くを散歩するつもりだった。
靴を履いて、玄関の扉を開けた瞬間にそれはかなわなくなってしまったのだけれど。
玄関先で傘をさした途端に、家の前を通った一台の車にクラクションを鳴らされた。
「こんな時間に何してんだ!早く家に戻りなさい!!」
窓から顔を出して怒鳴るその人に見覚えがあって、私は車を見つめる。
私の指先からは馬鹿みたいによく光る蛍光塗料が溶け出していた。
「…ウリワリ?」
声を荒げた本人も私に気付いて車を止める。
「先生でも、そんな風に怒るんですね。」
私が笑うと少し照れたようにバツの悪そうな顔をして、彼は車を降りた。傘を差し出すと、困ったようにこちらを見る。
「…こんな時間に何してるの。」
極めて冷静を装ってそんな風に尋ねるのだから可笑しいと思ったのを覚えている。
「先生こそ。」
「俺は、連日の雨で街が危険な状態になってるから、下校時刻とか夜とか生徒の安全を見回ってくれって上の人から言われてんの。一番海沿いの地域の担当になってさ。」
「こんな遅い時間に?」
「今日はたまたま用事があって帰るの遅くなっちゃったんだよ。」
「…へぇ。用事…。」
にやにやと私が彼を見つめると、何も言っていないのに彼は慌てふためいた。
「俺の話はいいから!ウリワリは何してたの。こんな時間に、しかも雨の中。」
「最近の雨で頭痛が酷くて不眠症気味なんですよ。だから、少しだけ散歩して帰るつもりでした。」
正直にそう答えると、少し驚いたように彼は私を見た。
「蛍光塗料、こぼしていけば迷子になることもないし、何かあっても手掛かりにはなると思ったんですけど。」
手からぽたぽたと落ちて、道路に斑点模様を描く塗料を彼に見せると、彼は馬鹿だなぁ、と笑った。
「そんなんじゃ、手掛かりにはならないよ。」
「連れ去った人の車のナンバーくらいは道路にかけますよ。」
ほら、と彼の車のナンバーを道路に書くと、彼は少し慌ててそれを私に消すよう求めた。
なんてことのない、そんな会話だったと思う。
それから何分ほど話していただろうか。
雨が強くなってきたな、なんて会話をしていた矢先だった。耳をつんざくような、ドンという地響きが一度聞こえたかと思うと、ズズズと地鳴りが街全体を包む。
その後は一瞬だった。
彼が私の手をひいて車の中に乗せたかと思うと、私の意見など聞かずに彼は車のアクセルを踏んだ。シートベルトなんてする暇なく揺れる車内に頭をぶつけながら凄いスピードで窓の向こうを景色が流れていく。
彼は私が呆然としている間にも、ガチャガチャとレバーやハンドルを忙しなく動かして山道を登っていた。
私がようやくシートベルトをしめて私の左側にあったバーを掴んだ時には、もう家から随分離れた学校の側まで山を登っていたように思う。
後ろを振り返ろうと体をよじった瞬間だった。
私を彼の手が制する。
「ウリワリ、山の頂上につくまで絶対に振り返るな。」
聞いたことのない、低くて冷たい声だった。
まるでその声に支配されたみたいに、私は体を硬直させてゆっくりと視線をフロントガラスに戻す。
きっと、無意識に私は分かっていたのだ。
自分の身に起こったことや、街のこれからを。
ドン、と再び大きな音が聞こえて、彼は小さく舌打ちした。彼のレバーを握っていた手が車のステレオ部に伸びたかと思うと、スピーカーは大きな音で音楽を鳴らし始める。
あの時流れたのは、なんて曲だっただろうか。もう何十年も前に流行したアーティストの曲だったように思う。イントロを奏でる優しいアコースティックギターの音が、煩すぎるほど車内によく響いていた。
山をいくつ越えたか、ようやく日が昇り始めると、彼は車のスピードを落として、どこともわからぬその場所に車を止めた。少し行ったところにコンビニが見えたことは覚えているけれど、そこで何日くらい過ごしていたのかはもう思い出せない。彼と話をしたかどうかも、何を口に入れたのかさえ。
「一度、街に戻るよ。」
彼がそう口を開いたのは、雨が止んでしばらくたった日のことだった。
「…怖い……。」
小さく首を振ると、彼は私の涙が止まるのを待って呟いた。
「…それでも、生きていかなきゃいけないんだ。」
だから、行こう。
彼はその後はもう私の意見を聞かなかった。
エンジンのかかる音が車内に響く。
そして、何時間もかけてきた道をもどった私たちが山の頂上近くから見下ろしたそこには、青く輝く海があった。