よるのむこうに
「あ、すみません」
反射的にそう謝った。ぶつかった相手はぱっと見てわかるほど顔を赤くしていて思わず息を止めてしまうほど酒臭い。
サラリーマンだろうか、彼はヨレヨレになったジャケットを着ていてネクタイを胸の辺りまで緩めた三十代ぐらいの男だった。
「ねえちゃん、」
男はへらっと笑うと私に手を伸ばしていきなり私の胸をわしづかみにした。
肩がぶつかっただけでまさかそんなことをされるとは思わなかったので、私はかすれた短い悲鳴をあげるのがやっとだった。
数歩後方に下がった。
「やめてください、ちょっと!」
「ハハハ」
男は面白がっている。はっきり聞き取れない言葉でぶつぶつと何かを言った。
これはクレームが通用しない人だ。そう判断した私は謝罪をもぎ取ることよりもまず逃走して身の安全を確保しようと彼に背を向けた。
「待て~」
彼は逃げようとした私に抱きついた。さすがに今度はちゃんと悲鳴が出た。
「ちょっと!やめてください、誰か!警察呼んでください!!」
私は男の腕の中でもがきながら通行人に助けを求めたが、ちょうどその場を通りかかった初老の男性は急いでいたのか何も気付かないような態度でさっとその場を行き過ぎてしまった。
駄目だ。自分で通報しよう。
バッグから携帯を取り出そうとしたけれど、背中から抱きつかれて腕の自由が利かず、うまく携帯を取り出せない。まだ通行人がちらほらといる時間だったけれど、周囲を歩いていた人たちもある人は関わり合いを避けるように逃げ、他の人々は呆然としていた。