よるのむこうに
「馬鹿!もう遅刻するじゃなくて遅刻しちゃってんじゃない!!」
「お前が悪いんだろ、出がけに化粧がとか言い出すから」
馬鹿はお前だ。
そもそも私は今日、自分が天馬の職場に連行される予定だなどとは一度も聞いていないし、何時に出るとも聞いていない。いや、そもそも今日はモデルの仕事が入っているのだということすら車の中で初めて聞かされた。
家でいつもどおり遅めに起きて、情報番組を見ながらゆっくりと関節を伸ばしていたときに「オイでかけるぞ」と言われたのだ。
そんな状態でいきなり出かけるぞといわれて5分で出られる女がいたらみて見たい!私はスッピンだったんだぞ。
「10分の遅刻ぐらいはまあアリだけど20分はさすがにねえだろ」
「普通の社会人は10分でも2秒でも遅刻はナシなんだよッ、10分前待機は社会人の常識だろうが、社会ナメてんのっ?」
私が声を上げた時、天馬はさっと振り返って私の唇に長い人差し指を押し付けた。
「黙れ。こっからは静かにな」
突然天馬のまとう雰囲気がぴりっと引き締まった。
私はその突然の変化に驚き、ぐっと言葉に詰まってしまった。
彼は私の返事も聞かずに重い鉄製の扉を押した。
もちろんその扉にも「関係者以外立ち居きり禁止」と書かれている。しかし、天馬は私の腕を離さない。私はそのまま扉の向こうに引きずりこまれ、たたらをふみながら部屋の中に踏み込む羽目になった。
「ハヨザース」
入ってきた天馬にスーツ姿の女性が顔を上げた。
私と同じくらいの年齢の女性で、黒縁のメガネをかけている。彼女はいかにも仕事ができそうな雰囲気で、しかも普通のスーツ姿なのに私がいつも通勤途中で見かける会社員とはどこか違う華がある。
「あら、天馬。10分遅刻じゃないの。
……そちらの方は?」
女性の視線がまともに私のほうを向いた。