よるのむこうに
「コイツは見学っす」
そんな説明で通るはずも無い。私は何か身分証になるものを持っていないかと、咄嗟に頭をめぐらせたが、なにしろいきなり連れ出されたので財布と携帯くらいしか持っていなかった。
しかし、身分証明書の提示を求められるという私の不安は杞憂に終わった。
彼女はすぐに私への興味を失ったように手元のファイルに目を落とし、天馬のページを確認して頷いた。
「そう。じゃあすぐに準備を始めて」
彼女が顎で示した先には小さなスペースをカーテンで区切ってある。
「ッス。……夏子、来い」
天馬はさっさと壁際に立てかけられたパイプ椅子を広げて私をそこに座らせた。
「ちょっと、天馬」
「あん?」
「どうして私をここにつれてきたの」
「一人であの家に残ってまた怪我でもされたら俺、もう仕事どころじゃなくなるだろ。だからつれてきた」
「あのときはたまたま無理に動いたから……。
ゆっくり動けば大丈夫だし、病院でもっと強い痛み止めを貰ってきたからここまですることないのに」
天馬はそのきつい目で私を見据えた。
「信用できるかよ。お前、自分が嘘ばかりついてるの、わかってねーだろ。
俺、マジで時間がないからもう行くぞ。
トイレに行きたくなったら声かけろよ、そこのカーテンの向こうにいるから」
着替え用のスペースなのか、天馬の指差す方向にカーテンで区切った場所があった。
「そんな、仕事中に」
部外者が撮影中のモデルにトイレだなんて言える訳がないだろう。
しかし天馬は強い目で私をにらんだ。
「変な遠慮なんかすんな。言わねえなら仕事はやめて帰るか?あァ?」
「……」
天馬は私の弱いところをよく心得ている。
モデルは問題を起こせば次の仕事が入ってこなくなる。いくら天馬のルックスがかっこよくてもモデルになりたい人はたくさんいる。常に供給過剰なこの世界で使い勝手の悪いモデルなんてすぐに見向きもされなくなる。
仕事を盾にされるともう何も言えない。
なぜ私が天馬の仕事を心配するんだ、私は天馬の母親なのか。
天馬が働こうが働くまいがそれは天馬の人生だ。
天馬は正直にいってモデルの仕事は好きじゃない。好きでやっている仕事ではない。そんな彼の姿勢は結構態度に出ていると思う。普通に遅刻するし。
こんな態度でイヤイヤ仕事を続けていれば早晩モデルの仕事も来なくなるだろう。私が気を使っても何の効果もないとわかっていながら、私はどうしても仕事を盾にされると黙ってしまう。