よるのむこうに


「そう、……そうですね。戻るのは、気が進まないです。
慣れない雰囲気ですし、私があの場にいる意味ってないでしょう?」


景久さんはにっこりと微笑んで頷いた。正解です。そういわんばかりの態度だ。けれど彼の並外れて上品な雰囲気のせいで、馬鹿にされているような気はしない。
むしろ、彼が奥まったところにいる私の心をうまく日の当たり場所に連れ出しているような感覚があった。


「着替えますか?」

「え?でも」

「服が気に入らないなら着替えればいい。ここには服を売っている店はいくらでもあります。あなたの髪を流行のスタイルに変えるサロンもあります」

「……いえ」


私は天馬の仕事が終わればまた日常に戻っていく。
1パック100円の玉子を買いにスーパーにいって、ついでに牛乳を買い足して、特売で68円になった菓子パンを籠に入れる。そちらが私の属する世界だ。

この数時間のために服を買って髪をセットしようなんてそんなことは考えない。私の日常はそっち側なのであって、天馬の出入りするこちらの世界ではない。

景久さんは頷いた。


「これはあくまで僕の個人的な感想ですが、僕はあなたの今の感じが好きですよ。懐かしい人に似ています」
「懐かしい、人ですか」
誰ですかとは聞かなかった。なんとなく彼の昔の恋人とか、妻。そんな相手の話をしている気がしたからだ。

「あなたのような人は、雑多なものの中に価値あるものをさりげなく隠しているところが楽しい。大量生産の服を着て、古いペーパーバッグの中にチョーサーを隠しているあなたは存在そのものが宝探しのようです。もっと話してみたい、宝を探したいと好奇心が疼くのです」

「難しいことを言うんですね」


失礼なことを言われているのか、そうでないのかわからなくなってくる。

「難しいでしょうか。
あなたたちが自然に生活として行っていることを言葉にしただけなのです。
僕は二十代半ばまでそういう宝探しのような人の存在を知りませんでしたが、妻がそういう人でした。結婚してはじめて人間を面白く思ったのです。僕はきっと、年齢のわりに幼い人間だったのでしょうね」

この人は少し変わっている。
私は少し身を引いた。

おそらく景久さんは地味でさえない私を慰めてくれているのだろうが、でも少し変な慰め方だ。聞く人によっては彼を失礼だと怒るかもしれない。そんなことよくわかっているだろうにあえて言う。へんな人だ。

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