よるのむこうに
「えっ」
「困ってしまいますね。
どうも……逃げた妻に似た人を見つけるといい人のふりをして本音を試したくなる。
すでに何度も失敗して、こういう人は揺らぎにくいのだとわかっているんですがね」
「なんですかそれ……。ちょっと、」
気持ち悪いです。と言いたくなったがそれを口にする寸前で彼が天馬の仕事のスポンサーであったことを思い出した。
「気持ち悪い、ですか?よく言われます」
彼は私の言いたい事を引き取ってわざわざ自分で口にした。
ここまで彼が私の思うことを予測できるのは、たぶん私が単純でわかりやすい人間だというよりも、景久さんの言うとおり私がやはりどこか内面に彼の元妻と同じものを宿しているからなんだろうと思う。
景久さんは懐かしむように目を細めた。どこか本心を押し隠した上品さが、その一瞬だけ幼くなる。
「あなたは素敵ですよ。着飾っても着飾らなくても」
私は一瞬、そんな彼の顔に見とれた。
とても優しい表情だ。はじめに感じた人の居心地を悪くさせる冷たい上品さがすっかり消えてしまっている。
本当は、優しい……ううん、繊細なんだ、この人は。
そう感じた時、私のバッグの中で携帯が鳴りはじめた。十秒ほどで留守番電話サービスに切り替わるはずのそれは何度も何度も鳴り続ける。それだけで今、電話を鳴らしている人物の表情や態度がわかってしまう。
景久さんは困ったような、呆れたような表情を浮かべた。
「いつもこれでは少し疲れてしまいますね。まるで僕の秘書のようだ」
今日知り合ったばかりの景久さんに核心をつかれてしまい、私は思わず肩をこわばらせた。
健康でないあなたにとっては、こんな風に追い立てられるのはつらいでしょう。
彼の瞳はそう言いたげだった。けれど、彼は言わなかった。
「彼は病気をした経験が少ないのでしょう。若いですし、見るからに丈夫そうです。
あなたが疲れてしまう前に少し手綱(たづな)を緩めることを覚えてくれるといいですね。
さあ、もう行きましょうか」
景久さんは私に手を差し出した。
柔和なその物腰からは想像もつかないほど言いたい事を言う男である。
しかし、核心をついているだけに腹も立たなかった。
だから今度は私もその手をとることを拒否しなかった。彼は私の手が自身のそれに重なると、満足そうにゆっくりと私の手を引いた。
繊細なそのやり方は、自然と優しさに結びついていた。
リウマチになる以前の私ならきっと見過ごしてしまっただろう。
天馬の溶けた金属のように熱い感情とは違う。
景久さんの優しさは、私が目の前からいなくなればあっという間に風にさらわれてしまう。低温の優しさだ。
私は久しぶりにほっと息をついた。
この人は私がこのごろの天馬を扱いかねていることをその繊細さで感じ取っているのだ。