よるのむこうに
「カメラオッケーでーす!」
アシスタントさんの声で、現場の空気が一瞬にして引き締まった。
バスケの1ON1は基本的に決まったルールはないらしい。
今回は1ゴール一点で五点先取したほうが勝ち。
ジャージに着替えた天馬は右手でボールをついて、丁度自身の足の間でボールをバウンドさせてから左手で取る、次に逆方向からボールをバウンドさせる、という動きを数回繰り返した。
天馬自身はもうバスケはやめたと言っていたけれど、何度も繰り返されるその動きは規則的で安定していた。まるでボールが意思を持って天馬の手の中に吸い込まれていくように見える。
樋川選手はその手元を見てにやりと笑うと、人差し指を上げて煽るように天馬を差し招いた。
天馬は何度かその場でドリブルをしていたが、突然姿勢を低くしたかと思うと、次の瞬間には樋川選手の脇を通り抜けていた。
「……うそ、」
撮影の邪魔になるような大声を出さないようにと彰久君に言い含められていた私は、咄嗟に自分の口元を手で覆った。
突然手を動かしたので自分の関節がついていかずに手首が、指がきしんだけれど、そんなことも気にならないほどの驚きだった。
先ほどまで私は天馬が暴れだすことか、撮影を放棄して帰ってしまうことをおそれていたけれど、天馬はそんな私のおそれを越えた実力を隠し持っていた。
もうバスケはやっていない。
その言葉は嘘ではない。私は天馬と二年間一緒に暮らして彼を見てきた。
彼はバスケットボールも持っていないし、朝からパチンコ屋の行列に並んでいるのも見ている。
時々、彼は妙に俊敏な動きを見せることもあったけれど、それは何度となく繰り返されてきた喧嘩によるものだと思い込んでいた。
けれど、目の前でこうした動きを見せられると彼は決してその能力を喧嘩で培(つちか)ってきたのではないとわかる。
バスケのことなど何も知らない私でもはっきりと理解できた。目の動き、手の動き、ジャンプ力。すべてが普通の人とは明らかに違うのだ。
私の驚きはその場にいたスタッフの驚きでもあった。
プロデューサーさんが彰久君の傍に駆け寄ってきて耳打ちした。
彰久君は愛想のいい笑みを浮かべて答えた。
「大丈夫ですよ、天馬のほうが体重も軽いでしょうし、ぶつかっても天馬が吹き飛ばされることはあっても逆はないでしょう」
「それはそうだけどさ……、番組としちゃ元チームメイトとの心温まるシーンを期待していたんだよ。それがさあ、なんか険悪だし……」
「今からこの1ON1を止めて撮り直す事もできますけど、天馬はともかく樋川選手はプレイに水を差されたら臍(へそ)を曲げると思いますよ。止めますか?」
彼らの小さなやり取りを聞きながら、私は天馬と樋川選手の1ON1をひたすら目で追っていた。