よるのむこうに
「……いや、」
天馬が手を伸ばして私の手首をつかんだ。腫れて痛むのがわかっているので、そっと私の手を包み込んで引いた。
「女も、こんなに続いたのはお前が初めてだ」
かすれた低い囁きと共に、彼が身を屈めた。
天馬はセックスのとき以外はあまりキスをしない人間なのに、その時は私の頭を抱き寄せて、そっと唇を重ねた。
私も、天馬の首に腕を回し、脱色を繰り返して傷んだ彼の髪に指先をもぐらせた。見た目よりもはるかに柔らかい髪の感触が心地よかった。
かわいい、かわいい、そしてかわいそうな天馬。いろいろと腹の立つことも多いけれど、私はこの人がかわいくてならなかった。たぶん、この切なくなるような涙のこぼれるようなどうしようもない気持ちを、愛しているというのだろう。
私達は言葉もなく、ただ短い口づけを繰り返した。
唇の重なるかすかな音は、車道を行き過ぎる車の音にかき消され、どこかの家で誰かが入浴する水音にかき消され、隣人の換気扇の音にさえかき消された。
けれど、私達はその生活音が耳に届かなくなるほど互いの唇に没頭した。
唇を重ねているその瞬間だけ、いやな仕事も過去のしがらみも、夏の終わりの蒸し暑さも病の苦しみも、すべてがガラス一枚を隔てた私達の外側に遠ざかっていく。
何度も何度も唇を重ね、ようやく互いの顔を見つめあった時、天馬が呟いた。
「あのさ、」
「うん」
「もっと稼げる仕事がやりてえ。今日みたいな単発のばかりじゃなくて」
「……うん」
天馬が何を言いたいのか、なんとなくわかる気がした。