よるのむこうに


天馬が過去について話したのはそれきりだった。

私達はまたもとの日常に戻っていき、天馬はモデル業に精を出し、私は療養と家事で一日を過ごす。
樋川選手について、天馬はもう口に出さなかったし、私も聞かなかった。
もう樋川選手と天馬が向き合うこともない。すべては終わったことなのだ。
私も天馬もそう感じていた。



いつの間に眠っていたのだろうか。隣の部屋から聞こえるくぐもった声で目を覚ました。
天馬の声が襖(ふすま)越しに聞こえてくる。

「だから、トライアウトなんか参加する時間なんかねえって言ってんだろ。仕事優先だ。もう俺はモデルで食ってるんだよ」

突然の怒声に私は動きを止めた。いつもなら朝起きるときは少しずつ関節をさすってあたためていくのだけれど、そんなことも忘れて動けなくなってしまう。

『トライアウト』。

プロ野球関連のニュースなどでたまに耳にする言葉だ。
プロ入りを希望する選手が団体関係の人の前で自分の技術や能力をアピールすることだ。

私は息を殺してその声を聞いていた。

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