よるのむこうに

「じゃ、掃除もあらかた終わったし、大家さんに鍵を返して行くか。すっかり遅くなったなあ」

「ごめんね、兄ちゃん。急にこんな事手伝わせて」

「ん?いいよ、盆も終わって丁度手も空いたんや。またすぐにお彼岸やけどなあ」


兄は私の生家、つまり和菓子屋の職人だ。
まだ父が現役で働いているので兄の立場は一職人に過ぎず、周りからも『ご主人さん』とは呼ばれないが、それでも跡取りとして忙しい時期に店を空けることはしない。兄は今回、私の願いをかなり無理をしてかなえてくれたに違いない。


「でも、義姉さんとのんびり過ごしたかったでしょう」


季節ごと行事ごとに違った菓子を出さねばならない職人にこれというほど暇な時期はない。盆が終わった短い休みは職人の家族にとって大事なものだ。


「いやあ、あいつは太一のお受験でそれどころやないわ」

「え、太一、受験するの?まだ六歳やのに」


私の記憶に残る兄の子は幼児のままだ。そんな彼が鉛筆を持って机に向かっていることさえ想像できない。
兄は渋い顔をして頷いた。


「親父もいい顔してないんよ、和菓子職人に『お受験』なんか必要ないってさぁ」

たしかに和菓子の職人で私立の小学校にいった人など私の知る限りはない。けれど、昔ならばともかく今は和菓子屋に生まれた人間はみな職人になると決まったものでもない。

実家にいた頃は跡取りとして育てられる兄を見慣れていたせいか、自分は男でなくてよかったと思うだけだったけれど、実家を出ていろんな立場の人と出会い、実家のやり方を離れてみると、長男に生まれたからには跡取りになるものという実家のやり方が絶対に正しいのだとはもう思えなかった。

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