よるのむこうに
「気をつけてね」
いつものように軽い口調でそう言ったけれど、私は内心とても緊張していた。おそらくアメリカへと旅立つ本人以上に緊張していただろう。
オーディションに受からなくても天馬ならばまたチャンスはあると思えるけれど、不慣れな土地で迷子になったり喧嘩になったらと思うと恐ろしくて吐きそうになる。
天馬はそんな私の緊張など全く理解しない様子で、いつもと変わらない態度で答えた。
「おう。……じゃあな、大人しくしてろよ」
『じゃあな』というそのぶっきらぼうな言葉が耳にこびりついてはなれない。
すっきりと整った美しい彼の顔に浮かんだ、あるかなきかの狎(な)れた笑みが目に焼きついて離れない。
この美しい人を見るのはこれが最後だ。その姿をよく目に焼き付けておこうと思うのに、まともにその瞳の中を見つめてしまったら涙をこぼしてしまいそうだった。
この二年、いつか別れてやると腹が立つたびにそう念じていたのにいざその時がやってくると胸が潰れそうなほど痛い。
今はもういない人との思い出が詰まった私の部屋。
履き古して形の崩れた天馬の運動靴、傷だらけのフライパン、パチンコでとってきた壁掛け時計。そんなものももうない。
「なんだ、お前……泣いてんのか?」
デリカシーなどかけらも持ち合わせない兄が、自身の汗で湿ったタオルを私の顔に押し付けた。
実家の匂いと兄の匂いがまじりあったそのタオルに顔をうずめ、私は声を殺して泣いた。
今、自分の決めたことが自分の思惑通り進んでいるというのに、それでも泣かずにはいられなかった。