よるのむこうに
兄の車は兄嫁の好きなレモンのにおいが満ちていた。
安定期に入ってもまだつわりが残っている兄嫁は車に酔いやすく、酸っぱい匂いを好むのだ。
助手席に座って兄の運転ですっかりリラックスしていると、不意に兄が口を開いた。
「俺らに遠慮して無理に嫁にいかんでもいいからな」
運転席の兄のほうを見ると、兄はいつも通りの顔をしていた。
「兄ちゃん、」
「母ちゃんは心配してるだけや。憎まんたってくれ」
母には随分心配をかけて、具合の悪かったころは随分手を煩わせた。母の心配はわかっているつもりだった。
私は兄の優しい言葉に頷いた。
「お前、東京で好きな人が居たんやろう」
核心を言い当てられ、私は顔を赤くした。
「ずいぶん背の高い男みたいやな。引越しを手伝った日、洗面台の鏡に歯磨き粉のあとが残ってたわ。
お前は昔から背の高い男が好きや。
中学のときに店に出入りしとう配達員さんに会いとうて、よう(よく)店のぞいて父ちゃんに叱られてたなあ」
兄は冗談めかして笑った。
自分自身ではほとんど覚えていないそんな過去の話を持ち出され、私もつられて笑ってしまった。
背の高い男。
兄に指摘されてみれば、十代の頃好きになった人はみんな背が高かった。
東京に出て結婚を意識するような年齢になってから付き合った人は天馬以外、みんな平均的な体型だったので、そんなことはすっかり忘れていた。
結婚を意識せず、好みに走ると背が高い男を選んでしまうのか。
今まで全く自覚のなかった自分の好みを兄に言い当てられ、ひどく気恥ずかしかった。
「家の事は心配せんと、いいと思う人が居たら結婚せえ。兄ちゃんも背の高い男をさがしとくわ」
私が車から降りるタイミングで、兄は愉快そうにそういった。優しい兄だった。