よるのむこうに
幻覚だろうか、いや、違う。
私から50メートルほど離れたところに、行きかう歩行者よりも頭一つ分、いや、頭三つ分ほど背の高い男がこちらを見つめていた。
その男は黒髪を短くベリーショートにしていて、ラフではあるけれど一応ジャケットを着ている。
私の知っている天馬は金髪で、耳には銀色のピアスをつけていて、そして、いつもだるそうな顔をしていた。
違う、天馬じゃない。
人違いだ。
もう一度天馬に会いたい、どこかで私はそう考えていたのかもしれない。
未練の見せる幻覚だ。
そうにちがいない。
何度も自分にそう言い聞かせた。
けれど、男はもう一度私を呼んだ。
「夏子!そこ、動くな」
違う。天馬じゃない。彼がこんなところにいるはずがない。
いや、そうじゃない。あれは天馬だ。
そう認識するなり、私は何を考える間もなく彼に背を向け、走り出した。
「夏子!てめぇッ!!」
リウマチを患い人工関節を入れるまでになった私が、まともに走れるはずがない。
自分でそう思いこんで、発症以来、一度も自分の足で走ってみようなどと考えたことはなかった。
けれど、やってみれば案外走れるものだ。土踏まずが軋み、足首が痛んだけれど、私は足を止めなかった。
突然現れた天馬が恐ろしかった。
なんといっても私は二年前、天馬を捨てて勝手に実家に帰ったのだ。ニューヨークから帰ってきた天馬があのマンションのドアを開けて、どんな光景を目にしたのか。それがわかっているからこそ会わせる顔がなかった。
走っているうちに先ほど購入した牛乳パックを落とした。続いて、靴が片方脱げた。そして、転んだ。
アスファルトに倒れこむその瞬間、強く腕をつかまれた。
「痛っ……、」
「馬鹿が。足で俺から逃げられると思ってんのか」