よるのむこうに
「夏子」
私は自分のバッグの中を漁った。中学一年生向けの教材からやり直せばなんとか、いやなんとかならないかもしれないが、やらないよりはましだろう。
「何?
ちょっと天馬、私が仕事に行く前にアルファベットを紙に書いていくからとりあえず私の仕事が終わるまでに全部覚えてちょうだい、スマホの辞書で発音をちゃんと確認すればすぐに」
「夏子」
天馬はそんな私を遮るように私の体を抱きしめた。
彼はくんくんと私の髪のにおいを吸い込んで、かすかなため息を漏らした。
「……今回だけ、こらえて譲ってくれ。俺はお前だけはあきらめ切れない。
またどっかに逃げられたら今度こそもう探しようもねえ。だから……嘘つきのお前の口約束はいらねえから、この紙に名前、書いてくれ。でなきゃこの手は離せない」
私を抱きしめる天馬の腕に、私の涙がぽつぽつと零れ落ちた。
天馬はバカだ。
ものすごいバカだ。
美人モデルと知り合う機会は星の数ほどあったのに。
才媛のアナウンサーと結婚する事だってできるのに。
バカだから自分の可能性に気付いていないのか、私と結婚すると言う。
私は何もない。
若くもない。
きれいでもない。
仕事もないし健康でさえない。明日突然動けなくなるかもしれない厄介な人間だ。
それでも天馬は私を………私を。
「お前を好きだって思ったことは無かったけど、お前が居ないと俺は何もしたくなくなる。生きているのも嫌になる。
……愛してるって言うんだろ、こういうの」