よるのむこうに
生まれて初めてビジネスクラスの席に座った緊張のせいだろうか、私は飛行機が離陸すると何度もトイレに行きたくなった。
「天馬、」
「なんだよ」
「トイレに行くから足を引っ込めて」
「またかよ」
私は通路と私の席の間をふさいでいる天馬の長い足をパンプスの先でこん、と軽く蹴った。
本来通路側の席は私の席だったのだ。
それを天馬が勝手に取替え、私が窓側になってしまった。ヤツがわざわざそんなことをしたのは私が「逃げるから」だそうだ。
私達を乗せた飛行機は今、高度一万メートルの上空にいるというのにどうやって逃げるというのだろう。まったく天馬はバカだ。
「……ちゃんと戻ってこいよ。また逃げたら今度こそ実家に押しかけるぞ」
私はその場面を想像してぞっとした。
実家は客商売をやっているのだ。
金髪を黒く染めて少しは落ち着いた風貌になったとはいえ、天馬のようなチンピラに店の前をうろうろされては商売上がったりである。
そんなことをされたら私は今度こそ兄夫婦に縁を切られるかもしれない。いや、両親に処刑されて無理やり寺か謎の寄宿学校にでも預けられて強制謹慎生活……。
「あのさあ!逃げるなんて言わないでよ、人に聞かれたら誤解されるじゃない!」
「前科持ちじゃん、誤解じゃねーよ」
私は天馬をにらんで立ち上がった。
そのとき、聞こう聞こうと思いつつなんだかんだでいそがしく、とうとう今まで聞かずじまいだった疑問が再び頭をもたげた。
「天馬」
「んだよ」
「あのさあ……あの日、私の居場所をどうやって知ったの?」
当たり前のことだが私は東京を出る時、自分の行く先について何も手がかりは残さなかった。その辺には十分に気を配ったつもりだった。
天馬は私の実家や職場はおろか、私がどこの地方出身かということも知らなかったはずだ。