よるのむこうに
「天馬、あのね」
場をとりなそうと私は勤めて明るい声を出すが、彰久君は天馬の不機嫌には慣れているようで、天馬から目をそらさないまま私を手で制した。
「仕事の話を持ってきたんだよ。お前、ほとんど仕事してないだろ」
「っせーな……。俺はモデルはやめたっつっただろ」
「モデルやめて何やってんの。夏子ちゃんのヒモ?」
核心を突いた言葉に私は内心青ざめる。
「ちゃんとやってるなら俺も何も言わないけど、女の子に迷惑かけているなら俺は遠慮なく介入させてもらうよ」
「迷惑なんかかけてねーよ。説教しにきたんなら帰れ。俺はモデルはやらない」
「いつまで拗ねてるつもりだ。いい加減消化しろよ。樋川は、」
私の知らない人の名前が彰久君の口から出た途端、天馬はものすごい目で彰久君をにらんだ。
炎のような怒りが一瞬にして天馬を飲み込んでしまうのがありありと見て取れた。
「てめぇ、」
天馬はいきなり彰久君の胸倉をつかんだ。彰久君のすらりとした体が床から浮き上がる。
やばい。喧嘩になる……!
けれど、天馬はチラッと私を見ると、チッ、と舌打ちしてそのままこちらに背中を向けた。
「待てよ、天馬」
「……」
引き止める彰久君の言葉が聞こえなかったわけでもないだろうに、天馬はそのまま出て行ってしまった。
気まずい沈黙が続いた。
彰久君は明るい色の癖ッ毛を骨ばった手でぐしゃぐしゃにした。
「あー……しまった……」
「……」
彼が樋川という名前を出しただけで天馬は今まで見たことがないほど怒った。その表情を思い出すだけで言葉が出なくなってしまうほどの迫力だった。
「ごめんね。怖かったよね?」
仕事の話をしようとここまで訪ねてきて、困っているのは彼のほうだろうに、彼はすぐに私の心配を始めた。
「天馬は怒ってもすぐに忘れるって知ってるから、平気」
私は気にしていない風を装った。
けれど、今彰久君が口にした樋川という名前はかっきりと私の心に刻まれた。
樋川。
どういう人なのだろう、天馬はなぜ樋川という名前を聞いただけであんなに怒ったのだろう。いろんなことが気になった。彰久くんはもし私が『樋川』という人について尋ねたら答えてくれるだろうか。ちらりと彰久君の女性的なほど華やかな横顔を窺うけれど、結局私は何も聞かなかった。