よるのむこうに
「……っと、あっぶね」
彼は何食わぬ顔をしてまな板の上に包丁を戻すと、牛乳パックを持っていないほうの手を私の頭に軽くのせた。
「どんくせぇ。そのうち簡単に死にそうでこえぇわ」
顔が熱くなった。
私が死んだって困らないくせに、どうしてそんなことを言うんだ。
そんな重たい言葉が口をついて出そうになったけれど、なんとか思いとどまった。今頃そんなことを聞いてどうする。
天馬の心の中に私のこうあって欲しいと思う「困る」はない。言葉通りの「困る」があるばかりだ。よくわかっているくせに。
私は自分の右手をぎゅっと握りこんだ。
人差し指が完全には曲がらず、私の拳はいびつな形になっている。おそらく、包丁を取り落としたのはたまたまではなく、リウマチ特有のこわばりが始まったせいだろう。
進んでいる……。
何度も何度も手を開いたり閉じたりしていると、やがてゆっくりと指はほぐれてきた。私はほっと息をついてまた料理の続きにとりかかった。