今日は恋に落ちたい
なんてことだ。私は、全然彼のことを知らなかったのに。

まあそもそも、ここで見かけたことくらいはあったとしてもあの夜の彼と同一人物だとはきっとすぐに気付けなかったと思う。髪型とメガネのおかげで、印象がだいぶ違うもの。

ああ、なんだか頭がクラクラする。ここで朝食を摂ったら、この後会社に行かなきゃいけないというのに。



「つーかあんた、あの日なに先に帰ってんだよ。まあ、どうせここで出くわすことになるだろうからあんまり慌てなかったけど」

「だ、だってあんなの、1回きりのつもりで……っ」



話している内容が内容なので、自然と声は極限まで抑えられる。

心なしか頬まで熱くなってきた。おかしい。こんなつもりじゃ、なかったのに。


目に見えて動揺している私に、多少溜飲が下がったのだろうか。「ふーん、」とさっきの不機嫌声がいくらかマシになった様子で鼻を鳴らした彼が、テーブルの上のブレスレットを軽くつつく。



「どうせあの日、男にフられたんだろ。で、ヤケになって酒飲みながらチョコレート爆食いしようとしてたと。最低なバレンタインデーだな」

「………」



フられたんじゃなくてフッたんだけど、という抗議は、喉の奥で留まった。

たぶんあの場合は、どっちでも似たようなものだ。眉を寄せて押し黙る私に、アツヤはふっと笑みをこぼした。

そしてそのまま身体を屈めたかと思うと、「でもまあ、」と私の耳元でささやく。



「いい女だなって気になってたヤツが、自分から懐に飛び込んで来てくれたんだ。俺にとっちゃ最高の夜だったな」

「……ッ!」



彼の吐息をまざまざと感じた左耳をバッと手でおさえ、布張りのベンチの上で後ずさる。

おそらく顔を真っ赤にさせてしまっている私の反応に満足げな表情をして、アツヤは思い出したようにスラックスのポケットへ手を突っ込んだ。
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