今日は恋に落ちたい
いつの間にか、スツールひとつ分空いていたはずの距離はなくなっていた。

処分に困っていたものをよろこんで口に運んでいる右隣りの男をちらりと見て、まあいいかと残っていたグラスの中身を飲み干す。

こんなにおいしそうに食べてもらえたなら、役目を失ったこのチョコレートも浮かばれる。少なくとも、しかめっ面の私に食べられるよりはよっぽどマシなはずだ。


たぶん今日は、29年間生きてきた中で人生最低のバレンタインデーだった。

ここしばらくすれ違いっぱなしだった恋人に、それでも今夜は会いたいとなんとか山盛りの仕事を片付けて、奮発して買ったチョコレートを手にサプライズで彼のマンションを訪れたのがつい2時間ほど前のこと。

渡されていた合鍵を使ってそっと玄関ドアを開けたとき、私は違和感に気が付いた。打ちっぱなしの狭い玄関に、明らかに女物と思われるボルドーのピンヒールを見つけたから。

次いで部屋の奥から、甘ったるい女の嬌声と息を荒らげた彼の声が耳に届いて。今この部屋で起こっていることのすべてを理解した瞬間、私は再び音もなく彼の家をあとにした。


呆然としながらしばらく歩き、ようやく私は、バッグの中からのろのろとスマホを取り出す。

画面に呼び出した彼の名前を見て思わず泣きそうになりながら、【別れたい】とただひとことだけのメッセージを送った。

あっさり了承されるにしろ引きとめられるにしろ、今はあの人からの言葉なんて見たくないし聞きたくもない。メッセージの送信が完了したことを確認した私は躊躇うことなくスマホの電源を落とし、再度それをバッグの中へ突っ込んだ。

そうして私はそのまままっすぐ帰路につくことはせず、自分の中のやるせなさを少しでも軽くしたくて行きつけだったこのバーへと足を向けたのだった。


ここはいい。静かで、客と店員の質が良くて、お酒もおいしくて。

三十路目前にして恋人に浮気をされた──もしかしたら自分の方こそ浮気相手だった可能性もあるけど──虚しい女が独りでヤケ酒するには、もってこいの場所だ。

頭がぼんやりしている。チョコレートを取り出す前から、すでに数杯のグラスを空けていた。

あまり酒に強い方ではない自分は今現在どうやらそれなりに酔っているようで、頬杖をつきながら無意識に隣りにいる男へ不躾な視線を向けていた。
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