夫の教えるA~Z
 ふんジジイめ、もとキャッチャーの動体視力を舐めんなよ。…補欠だったけど。

 俺は、ニヤリと笑って挑発すると、来いとばかりに構えを取った。

 躍りかかったヤツの繰り出す切っ先を手で払って退ける。

「く、クッソぉ~~!」
 ヤツは無様に地べたに尻餅をついては、また再び向かってきた。
 
 なぶるように何度もそれを打ちかすたび、周囲から歓声があがる。

 ヒュー、オレ最高。


「クソぉ、クソぉ~…ハア…」

 数回の応酬の末。
 とうとう奴は尻餅をついたままに涙目に俺を睨み上げ、向かってくるのを止めた。

 “イヤイヤ”と歓声に応える俺に、地べたに這いつくばる部長。


 勝負はついたかに思われた。


 しかし。

 有頂天になった俺はその時、すっかり油断していた。
 悲しいかな、極限状態でも人間は自分より弱い者を的確に見分ける。

 そして惨めな復讐心を、無関係な弱者に向けるんだ。

 俺に敵わないと知ったヤツは卑怯にもその凶刃を、世の中で一番大事な、俺の最愛の奥さんに向かって振りかざした。

「ウ、ウワアアア…‼‼」


「トーコ‼」
「アワワワワ……」

 いつも逃げ足だけは早いくせに、すっかりビビって腰を抜かしている彼女。

 ヤツの凶刃は、容赦なく小さき者にふりかかる。

 俺は、我を忘れて夢中で彼女の前に飛び出た。

 刹那ーー

 ヤツの刃が俺の目の前を、有り得ないほどゆっくり過った。

 と、グサりと鈍いイヤな音が耳に聞こえてーー

 しんと辺りが静まった。

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