夫の教えるA~Z
俺と目が合った夏子は、後ろ頭を掻きながら、こちらへ歩いてきた。
その表情は、"はー、もう仕方ないわね"とでも言いたげだ。

「あの、あのっ」
俺と夏子に挟まれ、どちらを向いていいのか分からないとでもいうように、松田は首を左右に振っている。

俺の前に立った夏子は、俺が口を開く前に、怒濤のように喋りだした。

「あのさ、勘違いされないよう先に言っとくんだけど。
これは別に、あんたが考えてるようなことじゃないからね?
このコがたまたまうちのジムの会員《メンバー》で、たまたま私が今日遅出出勤で、昨日たまたま明日も会社して、"ならついでだから、迎えにいってあげる、じゃあお願いします"って話になって。
ホントにそれだけだから。
わかった?」

「あ、うん…」

俺、まだ何も言ってないんすけど。

○○(たまたま)多くね?
それに、"ついでに"って言うけどさ、実家-会社-スポーツジムって、ほぼ三角形の動線なんだが。

そんな突っ込みを入れる隙を与えないくらい、まくし立てるだけまくし立てて、彼女はさっと踵を返した。

「じゃあ、私はもう行くから。
秋人(あんた)もたまには、早く帰ってあげんのよ」

さっさと背を向け、愛車に向かう夏子の後を、
「すいません、すいません」
何故か申し訳なさそうにペコペコ頭を下げながら、大きなリュックの松田が追いかけてゆく。


ブウン。

その数十秒後には、ボーッとつっ立っている俺の前を、派手なエンジン音を轟かせて、姉ちゃんと部下を乗せたバイクが通りすぎていった。


「………。何これ」
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