夫の教えるA~Z
……また、酷い言葉を投げられてもいい。

彼に触れたいと思った。

 重い半身を引きずって、そっとその背に近づいた。

 ちょいちょいと、汗に濡れたホワイトのシャツを引っ張った。

 すると彼は煙草を離し、驚いたように振り返る。

 “起こして”とせがんだら、最初はひどく戸惑っていた。
 でもやがて、煙草を灰皿に押し付けてから、壊れ物みたいにそっと私を引き寄せた。

 私が彼の顔を覗くと、瞳が不安そうに彷徨(うろつ)いた。
 ニッと笑って冗談めかし、ペチンと頬を叩いたら、ひどく情けない顔をした。

 それから一言“ゴメン”と謝って、折れそうなほどに抱き締めた。

「…苦しいよ」

「好きなんだ君が……どうしようもなく」
 
 震える声で告げたのは、これまでに一度も、プロポーズでさえ言わなかった言葉だった。
 私は返す言葉がなくて、彼の背に手を回して、ギュウッと抱き締め返した。
 

 私はこれまで、自分よりずっとランクの高い彼に愛されて、舞い上がってただけだった。


彼が弱さをさらけ出した日。
本当の彼をかいま見た日。


 私は初めて。
 容姿や地位や年収らやの、スペック抜きの彼の事を心から好きになったんだ。


 
 (J おわり)

< 86 / 337 >

この作品をシェア

pagetop