憧れの染谷くんは、いつも

「松井さん」

「はい」

「帰るところ悪いんだけど、営業部の高嶋のところに、私の代わりにこれ持って行ってくれない? これから用事があることをすっかり忘れてて。ハンコが必要なものだから、直接お願いね」

「……わかりました」


(室長がそんなに大事なことを忘れるだなんて、珍しい……)


そんなことを思いつつも、特に断る理由もないので引き受ける。室長が持っている書類を受け取ろうとすると、必要以上に近寄ってきた彼女が私の耳元で囁くように言った。


「……その様子だとまだ渡せてないんでしょう? 頑張ってね」

「っ!」


驚いて室長の顔を見ると、いたずらが成功した子どものような、高揚した表情をしている。


「ありがとうございます……」


室長に見透かされていたことがとても気恥ずかしく、慌ててお礼を言う。彼女は凛々しくも優しい笑顔のまま、軽く手を振って見送ってくれた。


ーーやはり室長は器の大きい素敵な人だ。


〝先輩のミスで仕方なく書類を届けに行く〟という口実まで作ってくれた彼女に感謝しながら、私は本日二度目の営業部フロアへと向かった。

< 106 / 120 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop