憧れの染谷くんは、いつも
憧れのきっかけ
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染谷くんに初めて会ったのは、入社直前の3月半ばに開かれたオリエンテーションだった。
内定者の顔合わせのようなものだが、私は緊張のあまり予定時刻よりかなり早く来てしまった。今思えば非常識とも取れる行動だが、当時の私にはそんな判断もできなかった。社会人の常識など持ち合わせていなかったのだ。案の定、通された会場である会議室の片隅でしばらく待つことになった。
案内してくれた総務の人から渡された資料を眺めながら、ぼんやり将来のことを考える。
運良く入社できることになったけれど、仕事が覚えられなくて迷惑ばかりかけたらどうしよう。もしすぐにクビになってしまったら、私の母校からはもう誰も採ってくれないかもしれない。
机と椅子しかないがらんとした無機質な部屋の中、そんな後ろ向きなことばかり考えてしまう。
ドアが開いたのは、そんな時だった。
「あ」
驚いて声がした方を向けば、相手も驚いた顔。目も、口も、まん丸に開いていた。
「ごめん。一番乗りかと思ったのに、人がいたから驚いて」
今度は一転笑顔を見せて、なぜか私の隣の席に着いた。こんなに席は空いているのに、距離を詰められて息が止まりそうになる。
「同期になる、染谷です」
差し出された手が、優しそうだなと思ったけれど。これを、私は、どうすれば。
「握手嫌だった?」
固まったまま数秒、彼の右手を見つめてしまった。馴れ馴れしくてごめん、と言って引っ込められた手。正直嫌ではなかったけれど、今までの人生でそんな経験はなかった。ましてや、私たちは初対面だ。
それでもほんの少しだけ罪悪感が芽生えていた私は、謝ることにする。
「の、ノリが悪くてごめんなさい。私、松井です」
さっと頭を下げて、1秒もしないうちに顔を上げる。
目が合った。
好意的な握手を拒否する格好になってしまったにも関わらず、爽やかな笑顔を浮かべた彼と。
「もしかして、緊張してる?」
笑顔なんてどこかに置いてきてしまったような私とは反対に楽しそうに笑う彼を見て、なんだかすごい人だと思った。うまく言えないけれど、彼には人を惹きつける何かがある。
「そ、そりゃあもう! 染谷さんは緊張してないんですか」
「最終面接の時は緊張したけど、今日は全然。むしろ楽しみ」
羨ましい限りだ。私もそんな肝の据わった人間になりたい。
私は隣のきらきらした太陽のような視線から隠れるように、手元の資料に視線を落とした。
「……大丈夫。何かあったら助け合おうよ、せっかく同期になったんだし」
えっ、と声が出そうになる。隣を見ると既に彼は私の方は見ておらず、資料を捲っていた。
自分に自信がある人というのは、随分無責任な発言をするものなんだ。いくら同期だと言ったって、他人のことまでは構ってられない。
そこまで考えて、私は我に返った。
私、何を真剣に考えているんだろう。世渡りが上手い人は、社交辞令だって上手いに決まっている。
私は隣の席に座る彼に気付かれないように、小さく息を吐いた。
その後予定時刻近くになって他の同期たちが集まり始めたけれど、私の心はもやもやしたままだった。