誠狼異聞―斎藤一、闇夜に駆けよ―
斎藤はいつしか震えていた。
右手の鞘と左手の刀を取り落とさぬようにするのが精一杯だった。
男は、暗がりの中で青ざめる斎藤を見上げ、くつくつと楽しげに笑った。
「俺は兄さんを庇【かば】ってやることができる。もちろん、ただってわけにはいかねえ。そうだな、兄さんの人生を十年ばかり俺のために使ってくれねえか?
何、難しいことをやらせるわけじゃあねえさ。これからこの国を懸けて始まる大博打を、特等席で見せてやるよ」
何を言われているのか、理解が追い付かなかった。
男は、別に構わないと手を振って、付いて来いと斎藤に命じた。
無防備にすたすたと歩き出す背中を、斬ろうと思えば斬れたはずだ。
男に背を向けて逃げ出すことも、簡単だったはずだ。