【B】きみのとなり
アタシなら……多分、何言われても強引に略奪決定だろうけどね。
この水谷さんはしなかった。
水谷さんの控えめな気遣いが院長夫人との関係も気付くことが出来て、
今では鷹宮の母と呼ばれるほどに病院のスタッフ皆が水谷さんの子供のようなモノなのだと嬉しそうに話してくれた。
その家族の中には入って二ヶ月の私も入っているらしい。
そう言われると嬉しいやら何やら、ちょっとくすぐったくなっちゃうけどさ。
嵩兄のことも研修医の頃から知ってて海兄が入院して飛び降りして亡くなるまで、
全部一番近くで見守ってきたんだって。
海兄のことで凄く苦しんでた嵩兄を知ってるのよって水谷さんはアタシに話してくれた。
そして最後に続けられたのは、今この病院で起っていること。
私が就職してすぐ、院長夫妻の子供の一人が行方不明になった。
その人の名前は、嵩兄が弟のように可愛がっている緒宮勇人。
そしてその数週間後、もう一人のお子さんである鷹宮千尋が体調を崩して倒れた。
その二人の穴を埋めるために早城先生と氷室先生と嵩兄が中心になって、
代行業務を頑張りながら必死に踏ん張っているとのことだった。
そんなことアタシ、何も知らなかった。
兄貴、何もアタシには話してくれなかった……。
「橘高さん、もう暫らく私を立てて我慢して貰えると嬉しいわ。
嵩継君には私からもきっちりと話をしておくから。
嵩継君、私には逆らえないのよ」
そういって我が子の弱点を知る母のような笑みで微笑む水谷総師長。
そして、それは次第にアタシにも向けられた。
「それは橘高さん貴方もそうね。
その服の内側に隠れてる退職願、この状況が脱却できるまで私に預からせて頂けないかしら?
今の鷹宮に必要ない人材は一人も居ません。
ねっ、だから氷夢華ちゃんも今は我慢して頂戴。
嵩継君との話し合いの時間は私が責任を持ってセッティングしてあげるから。
その時に言いたいこと言いなさい」
うっ……何、この人。
この人に何か言われたら断れる雰囲気がないじゃん。
怒るわけでもなく、ただ自分のことを語りながら何時の間にか、
相手に断ることをさせなくする話術。
ただものじゃないね……この人。
流石、嵩兄を操る人だよ。
「わかった……だけど院長の息子が見つかるまでだから」
アタシが宣言するとお茶を一口に飲んで水谷さんは微笑んだ。
湯飲みに入ったお茶を一気に飲み干すと、
アタシは総師長に一礼をして部屋を出て医局に向かう。
外来が始まった時間。
誰も居ない医局のドアを開けて、
今日の検査予約の一覧に目を通すと自分の仕事場へ戻っていく。
退職願叩きつけてやるつもりだったけど、
タイミング逃しちゃったよ。
水谷さん……ある意味あのやり方反則だよ。
だけど……やってやるよ。
事情も理解できて少し兄貴の気持ちもわかったような気がするから。
それにようやくアタシも部外者から鷹宮のスタッフに受け入れて貰えた気がするからさ。
やってやるよ……院長の息子が見つかるまで。
院長の息子が見つかるのとアタシのダウン。
どっちが先になるかなんて……ある意味ロシアンルーレットだけどっ。
もう少し我慢してやるよ。
アタシも兄貴を困らせたいわけじゃないからさ。
けどリミットは院長の息子が見つかるまでだから……。
嵩兄……だから気付いてよ。
アタシの気持ちにさ。
……頼むからさ……。