遠くの光にふれるまで
朝から胸焼けがひどかった。
昨日野分さんと定食屋でから揚げ定食を食べたし、夜はなんだか作るのが面倒でファストフードで済ませたせいかもしれない。
ああ、わたしも油ものがきつい年齢になったのかとげんなりした。
いや、昨日はちょっと立て込んでいたから、疲れていただけだ……と、信じている。決して年齢のせいというわけでは……。
出勤すると店長がにやにやして近付いてきて、昨日はどうだった? と聞いてくる。
「ドタキャンされて、ばったり会った野分さんとごはんを食べに行きました、安くて美味しかったです」
昨日の出来事を簡単に説明すると、店長は「へ」と一言発して固まった。
「え、野分さん? デートじゃなかったっけ? しかも初デート……」
「急に仕事が入ったみたいで。お腹も空いていたので」
「それは……彼は知ってるの?」
「どうでしょう。彼の後輩の方が伝言を任されて来て近くにいたので、もしかしたら伝わっているかもしれないですね」
店長は目をぱちくりして、意味が分からないという表情だった。
「なんていうか……彼、また心配するんじゃない?」
「野分さんはお友だちなので、もし勘違いしていたらちゃんと訂正しますし、大丈夫ですよ」
「なんていうか……若菜ちゃんって無警戒っていうか、無頓着っていうか、天然っていうか……」
無警戒はひのえさんにも言われた。
無警戒もなにも、お友だちはお友だちだから。わたしにその気がなければ、間違いは絶対に起きない。
「ドタキャンされたら、普通もっと怒ったり泣いたり責めたり自棄になったりするもんじゃない?」
「いや仕事なら仕方ないですもん。お仕事頑張っているのに責められないです」
「……若菜ちゃんって、まだ若いのに悟ってるね」
今回はひのえさんだった。でもわたしだってそのうち、どうしても仕事を優先させなきゃいけない日が来るかもしれない。
そうしたら、ひのえさんには申し訳ないけれど、迷わず仕事を優先するし。それが副店長の責任というやつだ。……まあ、副店長と副隊長じゃ、責任のレベルが違うんだろうけど。
夜になっても胃と身体の疲れは取れなくて、アパートまでの道をのろのろと歩く。
確か胃薬の買い置きがあった。ビタミン剤はしばらく飲んでいなかったけれど、これもあるはずだ。
でも薬に頼るより、栄養のあるものを食べて、ゆっくりお湯に浸かって、ゆっくり寝たほうがいい気もする。
時刻は真夜中近く。
遅番の日はこんな時間になってしまうから、なかなか規則正しい生活はできないのだけれど。
ようやく部屋の前に着いて、ふう、と息を吐くのと同時に、勢いよく腕を引かれ、そのまま後ろに倒れ込む。
腕を引かれた時点で、それが誰なのかは簡単に分かった。
だから、地面に激突する恐れも、悲鳴を上げる必要もない。
ぽすん、と背中に何かが当たる。
何かというのは、ひのえさんの胸だった。
ひのえさんは背後から、わたしの肩に顔を埋める。
「ひのえさん、お仕事はもういいんですか?」
「……ああ」
「そうですか。お疲れ様です」
胸元に回された腕に触れ、どうしようもなく愛しい気持ちになる。
着物の袖が見えている。今日もまた天使の姿なのだろう。
「……若菜」
「はい」
「宿木から聞いた」
「はい」
「なんでおまえ、何回言ってもすぐ他の男と出かけるんだよ……」
「……え?」
冷たい声だった。今まで聞いたことがない声に、心臓がばくんと鳴った。
やっぱりやどりぎさんは、昨日のことをちゃんと全て報告したみたいで、昼間店長と話していた通りの展開になったみたいだ。