遠くの光にふれるまで




 のそのそと立ち上がり、壁にぶつかりながら目的地に急ぐ。
 目的地――トイレだった。

 倒れるように便器に顔を突っ込み、吐いた。
 朝から胸焼けしていたせいで、今日はろくなものを食べていなかったから、ほぼ胃液だったけれど、それでもつらいことに代わりはない。


 一頻り吐いて、壁に寄りかかる。
 少しすっきりしたけれど、今度は貧血で動けない。

 ああ、しまったな。まさかこの真面目な話の最中に限界がくるなんて。

 ぷるぷると震える手を握って、さっきひのえさんに言われた言葉を思い出す。
 男好きの軽い女って。そんなことは絶対にないのに。
 ひのえさんだから。ビビビってきたから、初対面でも人間じゃなくても拒否しなかったのに……。




「おい、若菜」

 ドアの向こうから、ひのえさんの声がした。
 てっきり帰ったと思ったのに、まだいたらしい。

「……すみません、ひのえさん。今日はもう、話せそうにないです……」

「大丈夫か?」

 ああ、やめて。優しい声でそんなことを言わないで。

「お願いします、帰ってください……」

「は? だって、吐いたんだろ?」

「吐きましたけど、大丈夫なので……」

「大丈夫って声してねえよ」

 確かに。驚くほど掠れた声だった。

「いいから開けろ。着替え手伝ってやるから」

「大丈夫です、少し休めば元気になりますから」

「見栄張るなよ」

「……ていうか、どんな顔していいか分からないんです」

「……」

「ひのえさんが思っていることは分かりました……ちゃんと話さなきゃならないってのも分かります、でも……気持ちの整理がつかなくて……。ごめんなさい……」

「そうか……分かった」


 ひのえさんの気配が遠ざかって行って、そして消えた。


 これは「喧嘩」と言ってもいいのだろうか。
 ひのえさんはもう二度と会いに来てはくれない。そんな気がして、身体の芯が冷えていくような感覚に陥った。

 付き合っている、と言っても、住んでいる世界も違うし連絡先も知らない。物理的な繋がりなんて、何にもない。そんな危うい関係だったのに……。


 悔しくって、壁にこつんと額をつけた。
 何が悔しいって、わたしの気持ちを全然伝えられなかったことだ。
 話せば分かってくれる、なんて甘かったのかもしれない。

 深く息を吐いて、目を伏せた。





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