頬にふれる距離

 細心の注意を払いつつ、織江は自宅ではないドアの鍵を差し回した。小さな金属音を立て解錠したドアを開け、更にごく最低限の音で留めようと気を配りながら身体を滑り込ませる。
 外はまだ、夕日が辺りを茜色に染める時刻であるにも関わらず、玄関から覗く室内は暗い。織江は三和土を上がり、途中にあるいくつかのドアにも迷うことなく、廊下を突き当たりまでへと進む。
 勝手知ったる、とリビングに繋がるドアへ手をかける。一歩踏み出せば、センサーがいち早く織江の存在に反応した。遮光カーテンの恩恵で時間の感覚のずれているリビングが、煌々と照らされ、室内の様子がはっきりとなる。
 テーブルには空の缶ビールと抜け殻になったツマミの袋。ソファーには脱いだ後の服が、そのままの綺麗な状態で保存されていた。床には複数の紙切れ。織江にはそれらの紙のどれが必要なものでどれが不要なものなのか、判別がつかない。
 小さなため息をひとつこぼし、織江は手早くコートを脱ぎ、食材の詰まったエコバッグを台所へと運ぶ。
 リビングと引き戸を挟みあるひと部屋からは、小さな寝息が微かにもれていた。

 明日は日曜日である。明後日は祝日。世間で騒がれている3連休の始まった本日から、織江とこの部屋の住人である彼とは、珍しいことに休みが重なっていた。暦通り、日曜・祝日のみが休日となる織江と、昼夜関係なく不規則な勤務形態の彼とでは、どうにか都合を付けなければ休みが重なることはほぼない。にも関わらず、今回はそれが起こったのだ。しかも、連日である。これはある意味、奇跡といっても過言ではない事象だった。
 ただ、この居住の主であり今は寝息を立てている人物は徹夜明け。特にふたりは予定を入れている訳でもなく、特段約束をしているわけではなかった。
 それでも、だ。
 待てども暮らせども一向に連絡をよこさなかった相手に焦れ、織江はここまで足を運んでいた。
 ゆっくり睡眠を取り、身体を休ませて欲しい気持ちはもちろん大前提としてある。だが貴重にも、顔を突き合わせ過ごせる時間が出来たのだから、それを無駄にはしたくない――という気持ちも、誤魔化し目を瞑れないのが、織江の正直な思いであった。
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