頬にふれる距離
織江は再び、ため息をこぼしてから髪をゆるく纏め上げる。仕事柄、毎日のようにぎゅうぎゅうに締め上げられている髪は傷みやすい。纏めるのも面倒な長さになってきたなと、美容院へ行くことを頭の隅のスケジュールに書き留めつつ、散らばる衣類を拾い上げ始めた。気にはなるものの、紙切れにだけは触れず、踏まず、に。
すでに小山を作り上げている洗濯物の色物を分別し、ネットへそれらを詰め込み、洗剤と柔軟剤をセットしてからスタートボタンを押す。静かな稼動音と共に流水が始まったのを確認してから、その場を離れた。もちろん、音が漏れ響かないよう仕切りのドアを閉めることも忘れない。
続けてリビングへと戻り、テーブルの上に散乱しているものをかき集めキッチンに運ぶ。ようやっと、置いたままになっていたマイバッグから食材を取り出し、必要以外のものを冷蔵庫へと収める。案の定、中にはビールと調味料、キムチや納豆などの最低限の食材しか入っていなかった。買い物へ行く時間も億劫になっていただろうことは、容易に想像ができる。
ある程度、お腹が膨れた冷蔵庫の扉を閉め、織江は幾度目とも分からないため息を無意識にこぼしていた。
――突然に押しかけたのは、やはり迷惑だったかもしれない。
波のように引いては返すを繰り返していた思いが再び現れる。家事全般を得意としている彼の日常を知っている織江にとってみれば、今見て回った室内の様子から、彼がどれ程までに忙しかったのかが手に取るように分かった。
年若い娘さんが恋焦がれる相手の元へ、不安と期待を胸に眉を寄せ、上目遣いも必須に「来ちゃった(見えない小さなハートのおまけ付き)」などの可愛らしい言葉と共に現れれば。それは相手も据え膳食わぬはなんとやら、と浮き足立つことだろう。
だが、織江は決してそれには当てはまらない。
己のワガママを『ワガママ』として相手に押し付けられる年齢ではないことは、重々承知している。それでも、焦がれる気持ちに年齢は、残念ながら関係ないのだ。
いくつになっても、恋愛においての様々な匙加減は難しいものである。と織江は頭を抱えずにはいられなかった。
そろりと。足音を忍ばせ、織江はリビングから続く引き戸を開ける。細く伸びる洩れた明かりで室内の様子が分かるようになり、それでも未だ多くを支配する暗闇の中にあるベッドを、織江の眸は捉える。布団に包まる彼の姿も。
開けた戸をそのままに、射し込む明かりを辿り、織江はベッドへと歩み寄る。側で腰を下ろし、手の平に顎を乗せ頬杖を付きつつ覗き込む。安眠を貪る彼の顔を。
眸の隠された瞼に影を落とす前髪を、人差し指で後方へ流した。睡眠中にも関わらず、存在する眉間のシワを見つけ、織江の口元は緩んだ。