月が欠けて満ちる間に、たった一つの恋をしよう
「矢上さんになら、何されてもいい」
「お前、馬鹿か!?」
吐き捨て、矢上は呆れたように頭を掻いて、彼女を腕の檻から解放した。
「あー……やめた。馬鹿馬鹿しい。行けよ。お前が言う『好き』はただの気の迷いだ。単に歳の離れた俺が珍しかっただけだ。間違いを起こさねえうちに……」
「矢上さん。私の本当の名前はね」
男の言葉をかぐやが遮った。
「輝夜(かぐや)・アディントンっていうの」
「アディントン? まさか、お前……」
驚く矢上の脳裏に浮かぶのは、経済誌でよく顔を見る壮年の……世界的な大企業アディントンホールディングスの頂点に立つ男の顔だ。
「そう。アレクシス・モーゼス・アディントンの娘よ」
「嘘だろ……」
思わず呟いた。それを聞いた輝夜は寂しげに笑った。
「嘘だったら良かったのにね」
その顔は大人びて、少し疲れて見える。矢上は己の失言を悟った。
矢上の腕から解放された彼女は、人気のない噴水の周りをゆっくりと巡る。
「私ね、生まれてからずっと母と一緒に暮らしてたの。父はいないって言われてて。でもね、色々あって、母と一緒に父の国へ行くことになったの」
矢上は彼女の告白にじっと耳を傾けた。彼女の靴音が言葉をひとつひとつ踏み固めるように響く。
「矢上さんと初めて会った夜はね、日本法人の偉い人とか、取引先の人との顔合わせのパーティーだったの。すっごく居心地悪かった。誰も私を見てくれない。『アレクシス・アディントンの娘』を見てるだけ。これからこんな目で自分を眺めてくる人と同じ世界で生きなきゃいけないんだって思ったら、全部嫌になっちゃって。逃げ出して」
「それであんなところにいたのか」
「うん。胡散臭いやつだとか思ったでしょ? それなのに矢上さんは私の手当てをしてくれて、上着も貸してくれた。あなたの優しさと、『私』を見てくれるその目が嬉しくて、気がついたら好きになってた」
長い告白を終えて、彼女は足を止めた。