僕は君に夏をあげたかった。
「………!」


言葉を失う、とはこういうことを言うのだろうか。

彼の顔を見た瞬間、胸が大きく音を立てて跳ね、私の頭は真っ白になった。

その場に呆然と立ち尽くす。


私を見つめる、とび色の目。

茶色い髪は細く、日光をはじき、サラサラと透けるように流れる。

端整な顔立ちは、きれいだけれどどこか儚い。


そう。

――――彼は儚かった。

あのときから……。



「……松岡(まつおか)さん?」


先に口を開いたのは彼だった。

それはテノールの、穏やかな声色。

少しだけ、ささやいているように響く声。


懐かしい。

変わっていない。



ふと

あんなに感じていた潮の香りが消え、代わりにテレピン油の香気が漂ってきた気がした。

それは放課後の美術室のにおい。

窓から差し込む西日と、段々濃くなるイーゼルの影。


そして、カンバスに向かう真剣な横顔。

私はいつもそんな彼をこっそり見つめていた。


「………佐久良(さくら)くん」


その名前を呼んだのは、2年ぶり。


でも、2年前と同じように胸がぎゅっと掴まれたように痛んだ。



佐久良くん。

佐久良 夏(なつ)くん。

中学時代の同級生。

1年2年と同じクラスで。

部活も同じ、美術部だった。


でも2年生の夏休み前に彼は転校して、それから一度も会うことはなかった。



(……それなのに、どうして)


どうして佐久良くんが、いま、ここにいるの?




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