ビタームーン
そのときの自分の軽薄さを身の内でのろいながら、亜奈は今しがたまで自分を抱いていた美津夫の背中を眺めていた。
彼の背中は美しい。余分な肉など何もなく、肩甲骨が筋肉をまとって張り出しているのが美しいのだ。
それに比べるとこの前の男の背中は、ただ細いばかりでぎょろりと飛び出した肩甲骨がぎょっとするほどにみっともなかった。
「そんなことを考えちゃう私がいけないのよね」
リネンの海に裸体を沈めたままつぶやけば、シャツに腕を通そうとしていた彼が振り向く。
「何が?」
「ミツくんには関係のないこと。ただの自省よ」
そう、美津夫の体が亜奈好みなのは、別に彼の責任ではない。たとえどんなに好みだったとしても、そのほかの部分で愛せる男を探せばすむ話だ。
今日だって突っぱねることもできたはず。それをせずに誘われるままにこのホテルへと入ったのは、亜奈が彼に抱かれたかったからに他ならない。
それでも美津夫は不安そうに眉を曇らせ、亜奈の寝ているそばへと腰を下ろした。
「もしかして、こんな安宿に連れ込んだから怒っているのか?」
たしかに、シーツさえもあざといほどに安っぽいこの部屋は、彼にふさわしくない。
彼の家は元華族だか貴族だかの高貴な家柄で、亜奈の実家があるごみごみとした住宅街を抜けた丘の上にたつ、とてつもなく大きな庭のある立派な豪邸に住んでいるのだ。そういう家には庶民にはわからない金の流れというものがあるようで、生まれたときから金の苦労などしたことが無いというお坊ちゃんでもある。
だから彼が蜜事に使うのは、あつらえはシンプルだがシーツは新品同様のほどよい糊の加減で、空気にも清掃の行き届いた清涼な香りを感じる高級ホテルばかりだった。
でも、体だけの関係である二人が別れるには、こういう安っぽい雰囲気の方がふさわしいではないか……そう思ったからこそ、亜奈の答えは『普通』であった。
「別にそんなことを怒っているわけじゃないのよ」
「そ、そうか。いや、いいわけになっちゃうけれど、あの時はどうしても我慢できなかったんだ」
「性欲を?」
「うん」
「いいんじゃない? 男として健全じゃないの」
「でも、こんな特別な夜を過ごすのに、これはないかな、とかさ」
「特別な夜……」
亜奈はベッドの上に身を起こした。
「特別なことなんて何もなかったじゃない。いつもどおり、ごはんを食べて、あとは家に帰るだけでしょ」
「いいや、そうじゃないよ」
ベッドのスプリングがキシッと鳴った。亜奈の肩がスプリングのたわみにつられて深く沈む。
亜奈をかかえこむようにベッドに手をついた彼の顔は、すぐ鼻先までせまっていた。
「そうじゃないよ、本当は特別大事な話があった。これからの二人の関係を変えてしまうかもしれない、大事な話がね」
少し気取った甘ったるい物言い、威圧的に亜奈を見下ろすまなざし……亜奈はこういうときの美津夫は好きじゃない。
だから頭を深く枕に沈めてから、彼の額めがけて頭突きを食らわせる。
「痛! なにすんだよぅ、亜奈ちゃん……」
彫り深くて美しい顔が情けなく泣きべそをかく。声はひどく甘ったれて、語尾が不服そうにかすれる。
これが亜奈の好きな『ミツくん』だ。
彼の背中は美しい。余分な肉など何もなく、肩甲骨が筋肉をまとって張り出しているのが美しいのだ。
それに比べるとこの前の男の背中は、ただ細いばかりでぎょろりと飛び出した肩甲骨がぎょっとするほどにみっともなかった。
「そんなことを考えちゃう私がいけないのよね」
リネンの海に裸体を沈めたままつぶやけば、シャツに腕を通そうとしていた彼が振り向く。
「何が?」
「ミツくんには関係のないこと。ただの自省よ」
そう、美津夫の体が亜奈好みなのは、別に彼の責任ではない。たとえどんなに好みだったとしても、そのほかの部分で愛せる男を探せばすむ話だ。
今日だって突っぱねることもできたはず。それをせずに誘われるままにこのホテルへと入ったのは、亜奈が彼に抱かれたかったからに他ならない。
それでも美津夫は不安そうに眉を曇らせ、亜奈の寝ているそばへと腰を下ろした。
「もしかして、こんな安宿に連れ込んだから怒っているのか?」
たしかに、シーツさえもあざといほどに安っぽいこの部屋は、彼にふさわしくない。
彼の家は元華族だか貴族だかの高貴な家柄で、亜奈の実家があるごみごみとした住宅街を抜けた丘の上にたつ、とてつもなく大きな庭のある立派な豪邸に住んでいるのだ。そういう家には庶民にはわからない金の流れというものがあるようで、生まれたときから金の苦労などしたことが無いというお坊ちゃんでもある。
だから彼が蜜事に使うのは、あつらえはシンプルだがシーツは新品同様のほどよい糊の加減で、空気にも清掃の行き届いた清涼な香りを感じる高級ホテルばかりだった。
でも、体だけの関係である二人が別れるには、こういう安っぽい雰囲気の方がふさわしいではないか……そう思ったからこそ、亜奈の答えは『普通』であった。
「別にそんなことを怒っているわけじゃないのよ」
「そ、そうか。いや、いいわけになっちゃうけれど、あの時はどうしても我慢できなかったんだ」
「性欲を?」
「うん」
「いいんじゃない? 男として健全じゃないの」
「でも、こんな特別な夜を過ごすのに、これはないかな、とかさ」
「特別な夜……」
亜奈はベッドの上に身を起こした。
「特別なことなんて何もなかったじゃない。いつもどおり、ごはんを食べて、あとは家に帰るだけでしょ」
「いいや、そうじゃないよ」
ベッドのスプリングがキシッと鳴った。亜奈の肩がスプリングのたわみにつられて深く沈む。
亜奈をかかえこむようにベッドに手をついた彼の顔は、すぐ鼻先までせまっていた。
「そうじゃないよ、本当は特別大事な話があった。これからの二人の関係を変えてしまうかもしれない、大事な話がね」
少し気取った甘ったるい物言い、威圧的に亜奈を見下ろすまなざし……亜奈はこういうときの美津夫は好きじゃない。
だから頭を深く枕に沈めてから、彼の額めがけて頭突きを食らわせる。
「痛! なにすんだよぅ、亜奈ちゃん……」
彫り深くて美しい顔が情けなく泣きべそをかく。声はひどく甘ったれて、語尾が不服そうにかすれる。
これが亜奈の好きな『ミツくん』だ。