ビタームーン
だから、つい彼の首に両腕が伸びてしまう。
「せっかくカッコよく決めようとしたのに……」
「カッコとかつけなくていいから、なによ、大事な話って」
別れ話をするのに、この体勢はよくなかった、と亜奈は後悔する。
何しろ機微を抱かれた彼はすっかり甘えきって亜奈の乳房の間に顔を寄せ、そのやわらかさを楽しむかのように頬ずりを繰り返しているのだ。
「うん、大事な話っていうのはさ……」
「ま、待って! やっぱりダメ!」
「ええ~、何でだよ」
「だって、大事な話をする雰囲気じゃないもの! これ!」
「う、確かに……」
「ねえ、ミツくん、ひとつだけワガママを言ってもいいかな?」
「ひとつといわず、いくつでも言って」
「ううん、ひとつだけでいいの」
亜奈はそっと目を閉じる。
『特別な話』の内容など、すでに予想はできているのだから、あとは亜奈が覚悟を決めるだけなのだ。
「そうよね、ミツくん、根は真面目だもんね。結婚しちゃったら、浮気とかできなさそう」
「そうだな、生涯を共に歩く女性を泣かすようなことはしたくない」
「だったら、私の胸から離れなさいよ」
「いいじゃないか、減るもんじゃないし」
「もう! 真面目な話をしようとしてるのに! ミツくんのそういうところは嫌い!」
「はい! はい! ごめんなさい!」
大慌てで身を引いた彼を見上げて、亜奈は悲しく微笑んだ。
「ねえ、ミツくん、その『大事な話』っていうの、もうちょっとだけ待って」
「もうちょっとって、どのくらい?」
「そうね、私の心の準備ができるまで……」
「だから、それっていつだよ」
「そんなに焦らなくてもいいでしょ、どうせ幼なじみっていう関係は切れないんだし」
「逆だよ、幼なじみという関係は切れないからこそ、だよ」
彼はベッドの端に座りなおし、ひどく真剣な表情で亜奈を見た。
「俺たちはここまで、ずいぶんとあいまいな関係のまま来てしまった。だから、いまハッキリさせておかないと、何十年もずるずるとこのままの関係になってしまいそうで、怖いんだ」
「わかったわ。でも、今日はいや。これが私のワガママ」
「う……それはやっぱり、こんな安宿に……」
「だから、それは関係ないんだってば!」
亜奈の剣幕に、美津夫はびくりと身をすくめる。
「わかった。話はまたの機会にする」
「そうしてちょうだい。私もできるだけ早く覚悟を決めるように努力するから」
「そんなに覚悟とか、必要かなあ」
「必要に決まってるでしょ。ミツくんにとっては一時のことかもしれないけれど、私にとっては……」
ぽろり、とこぼれた涙を隠そうと、亜奈は布団を頭の上まで引き上げた。
だが、聡い美津夫がそんなことでごまかされるはずはない。なぜなら亜奈の言葉尻は涙でたっぷりと湿りきって震えていたのだから。
美津夫は布団の上から、亜奈の頭だと思しきところを優しく撫でて囁いた。
「そうだな、一生の決定になるかも知れないんだから、それは時間をかけたいよな。でも、俺もひとつだけワガママを言わせてもらうなら……もう、待てないんだ」
「それでも、今日は聞きたくない」
「わかったよ、日を改めて話す機会を設けよう。それでいい?」
布団越しに亜奈がうなづけば、彼の声がいくぶん安堵にゆるむ。
「そうと決まったらさ、ほら、早く服を着て。一緒に帰ろう?」
「いやよ、そんなみっともない」
「お前は、いつもそうだな。たまには一緒に帰ってくれたっていいじゃないか」
「幼なじみだからって、それは油断だと思うのよね。ここは『そういうコト』をするためのホテルよ、並んで出るところを誰かに見られでもしたら、言い逃れできないでしょ」
「気にしすぎだろ」
「ミツくんが気にしさなさすぎなの!」
「わかったよ」
深いため息と共に、彼がベッドから立ち上がる軽い振動が伝わった。だから亜奈は、ぽろり、ぽろりと心置きなく涙を流す。
布団越しの彼の声は甘くも厳しい命令調。
「延長の料金も払っておくから、君は一時間後にここを出る、いいね?」
それは亜奈の好きな『ミツくん』が、ただの男に戻ったことを知らせる声。
「ちゃんとタイマーを仕掛けておくこと、今すぐにだ」
「うるさいわね、ちゃんとやっておくから、さっさと出て行ってよ!」
怒鳴ってやれば、深いため息と共に、ひどく切ない声が聞こえた。まるで蜜事の最中のように甘ったれて不安そうな声は、間違いなく亜奈の好きな『ミツくん』の声だ。
「亜奈ちゃん、俺はさあ……」
「なによ!」
「いや、いまはやめておく……ちゃんと君の顔をみて言いたいから」
その物言いが『ミツくん』っぽくないことに苛立ちを感じて、亜奈は無言であった。
「じゃあ、また連絡するからな」
彼が部屋を出てゆく音を背中で聞いて、亜奈はまたひとつ、涙をこぼす。
「……ミツくん……」
別れなら、自分から切り出すことだってできたはずだ。
むずかしいことじゃない、彼に向かってたった一言、「プロポーズ、うまくいくといいわね」と微笑んで見せればいい。ただそれだけのことなのに……
「ミツくん……ミツくん……」
涙と共に彼の名を呼びながら、ぎゅうっと体を丸め込む。
まるで胎児のように固く縮まった亜奈は、切ない気持ちを膝と腹の間に抱えこんで泣き続けるのだった。
「せっかくカッコよく決めようとしたのに……」
「カッコとかつけなくていいから、なによ、大事な話って」
別れ話をするのに、この体勢はよくなかった、と亜奈は後悔する。
何しろ機微を抱かれた彼はすっかり甘えきって亜奈の乳房の間に顔を寄せ、そのやわらかさを楽しむかのように頬ずりを繰り返しているのだ。
「うん、大事な話っていうのはさ……」
「ま、待って! やっぱりダメ!」
「ええ~、何でだよ」
「だって、大事な話をする雰囲気じゃないもの! これ!」
「う、確かに……」
「ねえ、ミツくん、ひとつだけワガママを言ってもいいかな?」
「ひとつといわず、いくつでも言って」
「ううん、ひとつだけでいいの」
亜奈はそっと目を閉じる。
『特別な話』の内容など、すでに予想はできているのだから、あとは亜奈が覚悟を決めるだけなのだ。
「そうよね、ミツくん、根は真面目だもんね。結婚しちゃったら、浮気とかできなさそう」
「そうだな、生涯を共に歩く女性を泣かすようなことはしたくない」
「だったら、私の胸から離れなさいよ」
「いいじゃないか、減るもんじゃないし」
「もう! 真面目な話をしようとしてるのに! ミツくんのそういうところは嫌い!」
「はい! はい! ごめんなさい!」
大慌てで身を引いた彼を見上げて、亜奈は悲しく微笑んだ。
「ねえ、ミツくん、その『大事な話』っていうの、もうちょっとだけ待って」
「もうちょっとって、どのくらい?」
「そうね、私の心の準備ができるまで……」
「だから、それっていつだよ」
「そんなに焦らなくてもいいでしょ、どうせ幼なじみっていう関係は切れないんだし」
「逆だよ、幼なじみという関係は切れないからこそ、だよ」
彼はベッドの端に座りなおし、ひどく真剣な表情で亜奈を見た。
「俺たちはここまで、ずいぶんとあいまいな関係のまま来てしまった。だから、いまハッキリさせておかないと、何十年もずるずるとこのままの関係になってしまいそうで、怖いんだ」
「わかったわ。でも、今日はいや。これが私のワガママ」
「う……それはやっぱり、こんな安宿に……」
「だから、それは関係ないんだってば!」
亜奈の剣幕に、美津夫はびくりと身をすくめる。
「わかった。話はまたの機会にする」
「そうしてちょうだい。私もできるだけ早く覚悟を決めるように努力するから」
「そんなに覚悟とか、必要かなあ」
「必要に決まってるでしょ。ミツくんにとっては一時のことかもしれないけれど、私にとっては……」
ぽろり、とこぼれた涙を隠そうと、亜奈は布団を頭の上まで引き上げた。
だが、聡い美津夫がそんなことでごまかされるはずはない。なぜなら亜奈の言葉尻は涙でたっぷりと湿りきって震えていたのだから。
美津夫は布団の上から、亜奈の頭だと思しきところを優しく撫でて囁いた。
「そうだな、一生の決定になるかも知れないんだから、それは時間をかけたいよな。でも、俺もひとつだけワガママを言わせてもらうなら……もう、待てないんだ」
「それでも、今日は聞きたくない」
「わかったよ、日を改めて話す機会を設けよう。それでいい?」
布団越しに亜奈がうなづけば、彼の声がいくぶん安堵にゆるむ。
「そうと決まったらさ、ほら、早く服を着て。一緒に帰ろう?」
「いやよ、そんなみっともない」
「お前は、いつもそうだな。たまには一緒に帰ってくれたっていいじゃないか」
「幼なじみだからって、それは油断だと思うのよね。ここは『そういうコト』をするためのホテルよ、並んで出るところを誰かに見られでもしたら、言い逃れできないでしょ」
「気にしすぎだろ」
「ミツくんが気にしさなさすぎなの!」
「わかったよ」
深いため息と共に、彼がベッドから立ち上がる軽い振動が伝わった。だから亜奈は、ぽろり、ぽろりと心置きなく涙を流す。
布団越しの彼の声は甘くも厳しい命令調。
「延長の料金も払っておくから、君は一時間後にここを出る、いいね?」
それは亜奈の好きな『ミツくん』が、ただの男に戻ったことを知らせる声。
「ちゃんとタイマーを仕掛けておくこと、今すぐにだ」
「うるさいわね、ちゃんとやっておくから、さっさと出て行ってよ!」
怒鳴ってやれば、深いため息と共に、ひどく切ない声が聞こえた。まるで蜜事の最中のように甘ったれて不安そうな声は、間違いなく亜奈の好きな『ミツくん』の声だ。
「亜奈ちゃん、俺はさあ……」
「なによ!」
「いや、いまはやめておく……ちゃんと君の顔をみて言いたいから」
その物言いが『ミツくん』っぽくないことに苛立ちを感じて、亜奈は無言であった。
「じゃあ、また連絡するからな」
彼が部屋を出てゆく音を背中で聞いて、亜奈はまたひとつ、涙をこぼす。
「……ミツくん……」
別れなら、自分から切り出すことだってできたはずだ。
むずかしいことじゃない、彼に向かってたった一言、「プロポーズ、うまくいくといいわね」と微笑んで見せればいい。ただそれだけのことなのに……
「ミツくん……ミツくん……」
涙と共に彼の名を呼びながら、ぎゅうっと体を丸め込む。
まるで胎児のように固く縮まった亜奈は、切ない気持ちを膝と腹の間に抱えこんで泣き続けるのだった。