ビタームーン
2
翌日、オフィスでパソコンの画面とにらみ合う美津夫は渋面であった。
もっとも難しい仕事の最中、わずらわしいパソコン作業をニコニコと笑顔でこなす人間はそうはいないだろうが、彼の不機嫌の理由は明らかに他にあるようにも見える。
そう、美津夫が思い悩んでいるのは昨日の亜奈とのデートの結果であった。
昨日のデートはいつもよりも特別な意味をもったものであったというのに、昨夜のうちに彼女の指にはめてやるつもりだった『婚約指輪』がいまもスーツのポケットに入っている。
見かねたのか、隣のデスクに座っていた若い女性がこそっと囁いた。
「眉間に皺が寄ってますわよ」
美津夫はパソコンから目を離して彼女を見上げる。
いかにも高貴そうなうりざね顔をした物静かな美人だが、美津夫の目線は見とれるそれではなく、少し恨みのこもったものであった。
「お前のアドバイスどおりにしたが、プロポーズできなかったぞ」
「あら、プレゼントをケチったんじゃなくて?」
「そんなことはない。教えてもらったとおり、ちゃんとデパートに連れて行ってすきなものを買ってやると言ったんだ。そうしたらアイツ、『通勤用の靴が古くなったから』って……」
「プレゼントとしては実用的すぎませんこと?」
「しかたないだろ、それがいいって言い張るんだから」
「なるほど、しっかりした女性なんですね」
「そのあと、映画にいった。お前が教えてくれた、流行の何とかいう恋愛映画をちゃんと選んだぞ」
「暗がりで、二人並んで……おまけに甘いラブロマンスですもの、盛り上がったでしょ?」
「ああ、盛り上がった。俺が」
「あら、カノジョさんは?」
「感動して、ボロボロ泣き始めて、とても何かを言い出す雰囲気じゃなかった。むしろ、話しかけたら怒られそうな……」
「あらあら」
美津夫は深いため息をついて頭を抱え込み、デスクの端にひじをついた。
「食事だって、ちゃんとしたところを予約したんだ」
「いいですわね、いつもよりちょっとあらたまった雰囲気、そういうものに女性は弱いものですわ」
「確かにいいよな、いつもよりあらたまった雰囲気……大いに盛り上がったよ、俺が」
「え~と、盛り上がった?」
「だってアイツ、すごくおいしそうにワインを飲むんだ。こう、白い喉をくいっと伸ばしてさ、それが滑らかにワインの滑る動きに合わせて震えるのが、もう……」
「で、しちゃったんですのね?」
「う……」
「私、そこが一番大事だってアドバイスしましたよね?」
彼女――市谷ハルカは肩をすくめて首を振った。
「体をむさぼりあう関係ではないとはっきりわからせる、そういう演出が女性の心をくすぐるんですわ。つまり日常とは少しだけ違う非日常を行動パターンに組み込むことによって二人の関係性にほどよい緊張感を与え、あたかも自分が物語の主人公になったかのような……」
「その解説は、この前も聞いたからいい」
片手を挙げて市谷の言葉をさえぎった美津夫は、いままでよりもさらに深いため息を吐き出す。
「やっぱり、最後のホテル、あれが敗因か」
「私、思うんですけど、幼なじみで、お付き合いも長いんでしょう? へんに気がまえなくても、指輪を渡すだけで通じ合うんじゃないんですか?」
「指輪なら、何回か贈った」
「あら、それなのに、一度もそういう話だと思われませんでしたの?」
「思われなかった。そういうところ鈍いヤツだから……はっきりいわないとダメなんだと思う」
「もっと非日常を演出するとなると……旅行とかいかがです?」
「それってつまり……」
「婚前旅行……少し早いハネムーンですわね」
「亜奈ちゃんと旅行か……修学旅行しか行ったことないなあ」
「そんな団体旅行とは違うんですのよ、朝から晩まで二人きりで、もちろん、夜もふたりで同じお部屋で、ダブルベッドで肌を寄せ合って眠るんですの。ね、これならプロポーズをするチャンスはいくらでもあるでしょう?」
「朝から……晩まで……」
美津夫の喉がぐびりと鳴った。両頬は明らかに紅潮して、視線はやや伏せられる。
「は、ハネムーンベビーとか……亜奈ちゃんは許してくれるかな」
「そんなことまでは知りませんわよ」
それでも美津夫は妙な具合に身をくゆらせ、何かの妄想に悶えているようだ。
市谷はそんな彼をみてあきれたように肩をすくめた。
「まったくあなたって、普段はあんなにかっこいいのに、どうしてカノジョさんのことになると、こう……」
「ん、何か言った?」
「はい、もっとシャンとしないと、そんな情けない姿ではカノジョさんに嫌われちゃいますわよ」
「お、俺はいつだってシャンとしているだろう!」
「ともかく、さっそくカノジョさんに連絡してみたらどうですか? ちょうどお昼休みも近いし、ランチデートですね。そのついでに旅行の計画でも話してみてはいかがです?」
「そ、そうだな!」
ポケットからスマホを取り出す美津夫のしぐさを、市谷はひどく優しいまなざしで見守るのだった。
もっとも難しい仕事の最中、わずらわしいパソコン作業をニコニコと笑顔でこなす人間はそうはいないだろうが、彼の不機嫌の理由は明らかに他にあるようにも見える。
そう、美津夫が思い悩んでいるのは昨日の亜奈とのデートの結果であった。
昨日のデートはいつもよりも特別な意味をもったものであったというのに、昨夜のうちに彼女の指にはめてやるつもりだった『婚約指輪』がいまもスーツのポケットに入っている。
見かねたのか、隣のデスクに座っていた若い女性がこそっと囁いた。
「眉間に皺が寄ってますわよ」
美津夫はパソコンから目を離して彼女を見上げる。
いかにも高貴そうなうりざね顔をした物静かな美人だが、美津夫の目線は見とれるそれではなく、少し恨みのこもったものであった。
「お前のアドバイスどおりにしたが、プロポーズできなかったぞ」
「あら、プレゼントをケチったんじゃなくて?」
「そんなことはない。教えてもらったとおり、ちゃんとデパートに連れて行ってすきなものを買ってやると言ったんだ。そうしたらアイツ、『通勤用の靴が古くなったから』って……」
「プレゼントとしては実用的すぎませんこと?」
「しかたないだろ、それがいいって言い張るんだから」
「なるほど、しっかりした女性なんですね」
「そのあと、映画にいった。お前が教えてくれた、流行の何とかいう恋愛映画をちゃんと選んだぞ」
「暗がりで、二人並んで……おまけに甘いラブロマンスですもの、盛り上がったでしょ?」
「ああ、盛り上がった。俺が」
「あら、カノジョさんは?」
「感動して、ボロボロ泣き始めて、とても何かを言い出す雰囲気じゃなかった。むしろ、話しかけたら怒られそうな……」
「あらあら」
美津夫は深いため息をついて頭を抱え込み、デスクの端にひじをついた。
「食事だって、ちゃんとしたところを予約したんだ」
「いいですわね、いつもよりちょっとあらたまった雰囲気、そういうものに女性は弱いものですわ」
「確かにいいよな、いつもよりあらたまった雰囲気……大いに盛り上がったよ、俺が」
「え~と、盛り上がった?」
「だってアイツ、すごくおいしそうにワインを飲むんだ。こう、白い喉をくいっと伸ばしてさ、それが滑らかにワインの滑る動きに合わせて震えるのが、もう……」
「で、しちゃったんですのね?」
「う……」
「私、そこが一番大事だってアドバイスしましたよね?」
彼女――市谷ハルカは肩をすくめて首を振った。
「体をむさぼりあう関係ではないとはっきりわからせる、そういう演出が女性の心をくすぐるんですわ。つまり日常とは少しだけ違う非日常を行動パターンに組み込むことによって二人の関係性にほどよい緊張感を与え、あたかも自分が物語の主人公になったかのような……」
「その解説は、この前も聞いたからいい」
片手を挙げて市谷の言葉をさえぎった美津夫は、いままでよりもさらに深いため息を吐き出す。
「やっぱり、最後のホテル、あれが敗因か」
「私、思うんですけど、幼なじみで、お付き合いも長いんでしょう? へんに気がまえなくても、指輪を渡すだけで通じ合うんじゃないんですか?」
「指輪なら、何回か贈った」
「あら、それなのに、一度もそういう話だと思われませんでしたの?」
「思われなかった。そういうところ鈍いヤツだから……はっきりいわないとダメなんだと思う」
「もっと非日常を演出するとなると……旅行とかいかがです?」
「それってつまり……」
「婚前旅行……少し早いハネムーンですわね」
「亜奈ちゃんと旅行か……修学旅行しか行ったことないなあ」
「そんな団体旅行とは違うんですのよ、朝から晩まで二人きりで、もちろん、夜もふたりで同じお部屋で、ダブルベッドで肌を寄せ合って眠るんですの。ね、これならプロポーズをするチャンスはいくらでもあるでしょう?」
「朝から……晩まで……」
美津夫の喉がぐびりと鳴った。両頬は明らかに紅潮して、視線はやや伏せられる。
「は、ハネムーンベビーとか……亜奈ちゃんは許してくれるかな」
「そんなことまでは知りませんわよ」
それでも美津夫は妙な具合に身をくゆらせ、何かの妄想に悶えているようだ。
市谷はそんな彼をみてあきれたように肩をすくめた。
「まったくあなたって、普段はあんなにかっこいいのに、どうしてカノジョさんのことになると、こう……」
「ん、何か言った?」
「はい、もっとシャンとしないと、そんな情けない姿ではカノジョさんに嫌われちゃいますわよ」
「お、俺はいつだってシャンとしているだろう!」
「ともかく、さっそくカノジョさんに連絡してみたらどうですか? ちょうどお昼休みも近いし、ランチデートですね。そのついでに旅行の計画でも話してみてはいかがです?」
「そ、そうだな!」
ポケットからスマホを取り出す美津夫のしぐさを、市谷はひどく優しいまなざしで見守るのだった。