ビタームーン
亜奈はランチデートがあまり好きではない。美津夫に呼び出されるのは彼の勤めるオフィスビルの一階に併設されたレストランだからだ。
「会社の人たちにみられたらどうするの、困るのはあなたでしょ」
「別にこまることなど何もない。幼なじみと飯を食うのに、なぜ会社のやつらのことなんか気にしなくちゃならないんだ」
「はいはい、そうよね、幼なじみだもんね」
「ともかく、飯代は俺が出す。だから代わりに、お前は一階のエントランスにきてくれるだけでいい」
短いやり取りの後、それでもオーケーしたのは、別に昼をおごってくれるという言葉につられたからではない。たとえわずかな時間でも美津夫のそばにいられるということがうれしかったからだ。
しかし、この区画でいちばん大きなオフィスビルの、ピカピカに磨かれた大理石造りのエントランスに立てば、そんな気持ちもしぼんでしまう。
「やっぱり、大きい会社はいいわよねえ」
駅に程近いこのビルの一階と二階は、有名企業のショウルームやこじゃれた食べ物屋が出店する商業用スペースとなっている。その上は整然と聳え立つガラス張りのオフィスフロアで、もちろんここにオフィスを置けるような企業といえば、日本人なら誰もが名前を知っているような最大手企業だ。
同じオフィス街にありながらも、小さな雑居ビルのワンフロアにちんまりと入り込んだ亜奈の職場とは全然違う。
少し気後れしながらも亜奈は、待ち合わせの場所よりもさらに奥、エレベーターホールへと足を向けた。ここはピカピカに磨き上げられた大理石で区切られ、エレベーターが六機も並んでいる。
そのうちの三機はオフィス直通で、美津夫が乗ってくるとしたらそのうちのいずれかだ。ちょうどそのドアが開き、どっと人が流れ出してきた。
「あ」
亜奈がひとこえをあげただけで大理石に柱の陰に身を隠してしまったのは、その人ごみの中にいた美津夫の隣に美しい女性がいたから。
「あれは、市谷さん?」
美津夫がまだ大学生だったころ、サークルの後輩だと紹介されたことのある上品な黒髪の女性……あのころよりも髪は伸びて背中の真ん中でさらりとなびく毛先が美しい。
「そうか、控えめで奥ゆかしくて、古風……いるじゃないの、そういう子が」
口元を押さえて笑う上品な仕草も、まさにお嬢様といった風情で、お坊ちゃんである美津夫の横に並ぶとそこだけが空気さえも少しばかり高級であるかのように周りとは違ってみえる。
「すむ世界が違うってやつか……」
あの女性が血統書つきの座敷犬だとしたら、自分は野良犬……それも薄汚れてゴミ箱にツッコミすぎた鼻先が擦り切れたような可愛げのない雑種犬だ。
高校卒業と同時に働きはじめたのだから学歴もない。平凡なサラリーマン家庭に生まれたのだから家柄もない。さらに、好きな男に向かって尻尾を振るような愛想もない。
なんだか少し悲しくなって、亜奈はそのままソコを離れようとそっとかかとを引いた。
そのときだ、耳元でねっとりと湿った囁き声が聞こえたのは。
「おや、君は確か?」
振り向くと、でっぷりと太った中年男が怪訝そうな顔でこちらをみている。記憶の片隅にある他人の名前を思い出そうとしているような、いかにもそんな表情だ。
その男は、亜奈の肩越しにチラリと美津夫をみて、ようやく納得した風にうなづいた。
「ああ、思い出した、よくここで高峰くんと待ち合わせしているよね、恋人?」
亜奈はそれに対する明確な答えを持っている。何も臆することなどない。
「いいえ、ただの幼なじみです」
「そうかね、それにしては、ほら、あれが気になっているみたいだし」
男が指した先には、美津夫と市谷がいる。何か仕事の話でもしているのだろうか、美津夫は少し険しい顔で、ひどくテキパキとした口調であろうことがピシッとのびた背筋からもうかがえた。
それに対する市谷の仕草はひどく優雅で、温和そうに緩めた眉根がいかにもおっとりとした口調を思わせる。
あまりにもお似合いだ。
そんなことは亜奈にもわかっているというのに、中年の男はわざわざ言葉にして穴の耳元で囁いた。
「すごくお似合いだよねえ、釣り合いが取れているっていうのかさぁ」
「そうですね、絵になりますね」
「高峰くんはどこかの旧家のお坊ちゃんだっけ?」
「一般家庭だって本人は言っていますけれど、まあ、お坊ちゃんですね」
「市谷の実家も地元の名士と呼ばれる家らしくてね、家柄としても申し分のない付き合いだと思わないかね?」
「だから?」
「そうだねえ、だから、君が高峰をどう思ってるかは知らないけれど、無駄な想いなんじゃないかなぁっていう、忠告さ」
男の視線が舐めるように亜奈の体を這った。頭の先からつま先まで。
「それにしても君は、可愛いよね、前々からお近づきになりたいと思ってたんだ」
うそだ。ねっとり嘗め回すような視線は亜奈の顔などひとつもみてはいない。ほどよく張り出してスーツの前に美しいふくらみを作る胸元ばかりに注がれているのだから。
「君だって子供じゃないんだしさあ、現実的な恋とかしたほうがいいんじゃないかなあ、例えば俺なんかさあ、ちゃんと本命の恋人がいるのに抱くための女をキープしておくような不誠実なことはしないよ」
「それって!」
「おお、顔色が変わったね、カマかけただけなのに……ふふふ、やっぱりそうか、セフレか」
もともと亜奈はウソをつくのに向いていない性質である。さらに狼狽したことは青ざめて唇をふるわせた表情からも明らかだった。
「おねがい、誰にも言わないで……」
「ふうん? それは君の誠意の見せ方次第なんじゃないのかなあ?」
「誠意……」
「こんどさ、いっぺん誰にも内緒で会おうよ。そのときゆっくりと、ね」
意味深に囁く男の顔がゆっくりと近づいてくる。まるで他の誰の視線からも亜奈の姿を隠してしまおうとするように。
そして、キスをねだるかのように。
「ちょ、ちょっと! こんなところで何をする気ですか!」
「いや、約束の標にさ、味見ぐらいさせてよ」
男の唇を裂けようと、亜奈は大きく身を引いた。男の顔と、亜奈との間にわずかな空間があいた。
そこへぬっとさしこまれたのは、スーツの袖口もまぶしい腕だ。続いて、亜奈の目の前にすべりこんでくる、彼の背中。
「何してるんですか」
怒りでわずかに震える彼の声……自分を守るように立つ美津夫の存在に安心して、亜奈は大理石の壁に背中を押し付けた。
そうしなければ立っていられない、それほどに膝が震えているのを誰かに気づかれたりはしないだろうか。それだけが心配だった。
だから両腕を組んで、少し強気な声を出す。
「ミツくん、どいて」
「え、でも……」
「大丈夫、話をしていただけよ」
美津夫がしぶしぶ体をどけると、亜奈は中年男をきっと見据えて言った。
「そのお話、前向きに検討させていただきます。そちらも例の件、ご配慮ください」
中年男にも、ビジネス風を装おうとする亜奈の気持ちを汲む程度の能力はあったようだ。
「では、おってご連絡差し上げますので」
軽く頭を下げるとその場を後にした。
残された亜奈は、いまだに壁にもたれかかったままだ。
「ほ、ほらね、大丈夫でしょう?」
美津夫はそんな亜奈の腕を掴んで、細い体を自分の胸元に引き寄せた。
「な、なにするのよ、こんなところで!」
「大丈夫なら、どうしてそんなに震えているんだ?」
「別に震えてなんかいないし、それにこれ、みられたら困るでしょ!」
素早くあたりを見回すが、市谷の姿はもうない。こちらを振り返ってみていル物はいるが、短い昼休みのうちに食事を済ませなくてはならない企業戦士ばかり、誰も足を止めようとはしない。
それに、美津夫が亜奈の耳元でそっと囁く。
「大丈夫だ、困ることなんかないよ。小さいころ、亜奈ちゃんが怒られてうちに来るたび、こうやって泣かせてやっただろ、あれと同じだよ」
「そう、幼なじみゆえの行為というやつね」
「だから、強がらなくていい、なにが怖かったの?」
そういわれて冷静になれば、何も怖いことなどなかったように思える。
確かに脂の浮くような太った男は亜奈の好みではなかったし、いわゆる『キモブサ』の類ではあったが、ただそれだけだ。危害を加えられたわけではない。
膝が立たないほどに震えている理由は、もっと他にある。
「ミツくん……私はね、あなたに迷惑をかけたくない」
「うん? 迷惑くらい、いくらでもかけてくれてかまわない。そのためにそばにいるんだからな」
「いやよ、迷惑だって度をすぎれば腹が立つでしょう? 私はね、ずるいけれど、あなたに恨まれたくないの。せめて幼なじみとしては良好な関係でいたいの」
「わかった。どんなことがあろうと、幼なじみとして良好な関係でいることを約束するよ。だから教えて、あいつに何をされた?」
「大丈夫、何もされていない、何も……」
「じゃあ、なんの話をしていたんだよ?」
「ちょっとした仕事の話よ」
「仕事の? 何であいつと、仕事?」
「ミツくんだって、自分の関わっている仕事の話を全部私にできるわけじゃないでしょ、いろんな秘密ごとがあるのがお仕事ってものじゃないの?」
「ああ、うん、確かに……」
「だから、ね、心配しないで。これ、武者ぶるいってやつなの」
「そうか?」
「いいから、もうちょっとだけ強く……抱きしめて……」
「わかったよ……」
彼の腕の中で安堵のため息をついて、亜奈はそっと目を閉じた。
「ミツくん……」
「うん?」
「ううん、呼んだだけ」
寄り添いあう二人を邪魔する者はいない。誰もが足早に通り過ぎるオフィス街の片隅での出来事であった。
そのころ、市谷がどうしていたのかというと……実は二人からさほど離れていない柱の陰に隠れていたりする。
「あああ! なにあれ、なにあれですの!」
スマホを向けて盛んに撮影しているのは、雑踏の中で静かに抱き合う美津夫と亜奈の姿である。
「もう、たまんないですわ、なにあのバカップル! おっさんサマ、グッジョブですわ!」
ひとしきり撮影を終えて満足したのだろうか、亜奈にキモ絡みした中年男への感謝をつぶやきつつ、スマホをしまう。
「さてと、でもあのおっさんサマにはちょ~っとお灸をすえた方がよさそうですわね。お父様におねだりして、SP呼んじゃお」
うれしそうにぴょこんとひとつだけステップを踏んで、彼女もまた、昼食をとるために都会の雑踏の中へと踏み出したのだった。
「会社の人たちにみられたらどうするの、困るのはあなたでしょ」
「別にこまることなど何もない。幼なじみと飯を食うのに、なぜ会社のやつらのことなんか気にしなくちゃならないんだ」
「はいはい、そうよね、幼なじみだもんね」
「ともかく、飯代は俺が出す。だから代わりに、お前は一階のエントランスにきてくれるだけでいい」
短いやり取りの後、それでもオーケーしたのは、別に昼をおごってくれるという言葉につられたからではない。たとえわずかな時間でも美津夫のそばにいられるということがうれしかったからだ。
しかし、この区画でいちばん大きなオフィスビルの、ピカピカに磨かれた大理石造りのエントランスに立てば、そんな気持ちもしぼんでしまう。
「やっぱり、大きい会社はいいわよねえ」
駅に程近いこのビルの一階と二階は、有名企業のショウルームやこじゃれた食べ物屋が出店する商業用スペースとなっている。その上は整然と聳え立つガラス張りのオフィスフロアで、もちろんここにオフィスを置けるような企業といえば、日本人なら誰もが名前を知っているような最大手企業だ。
同じオフィス街にありながらも、小さな雑居ビルのワンフロアにちんまりと入り込んだ亜奈の職場とは全然違う。
少し気後れしながらも亜奈は、待ち合わせの場所よりもさらに奥、エレベーターホールへと足を向けた。ここはピカピカに磨き上げられた大理石で区切られ、エレベーターが六機も並んでいる。
そのうちの三機はオフィス直通で、美津夫が乗ってくるとしたらそのうちのいずれかだ。ちょうどそのドアが開き、どっと人が流れ出してきた。
「あ」
亜奈がひとこえをあげただけで大理石に柱の陰に身を隠してしまったのは、その人ごみの中にいた美津夫の隣に美しい女性がいたから。
「あれは、市谷さん?」
美津夫がまだ大学生だったころ、サークルの後輩だと紹介されたことのある上品な黒髪の女性……あのころよりも髪は伸びて背中の真ん中でさらりとなびく毛先が美しい。
「そうか、控えめで奥ゆかしくて、古風……いるじゃないの、そういう子が」
口元を押さえて笑う上品な仕草も、まさにお嬢様といった風情で、お坊ちゃんである美津夫の横に並ぶとそこだけが空気さえも少しばかり高級であるかのように周りとは違ってみえる。
「すむ世界が違うってやつか……」
あの女性が血統書つきの座敷犬だとしたら、自分は野良犬……それも薄汚れてゴミ箱にツッコミすぎた鼻先が擦り切れたような可愛げのない雑種犬だ。
高校卒業と同時に働きはじめたのだから学歴もない。平凡なサラリーマン家庭に生まれたのだから家柄もない。さらに、好きな男に向かって尻尾を振るような愛想もない。
なんだか少し悲しくなって、亜奈はそのままソコを離れようとそっとかかとを引いた。
そのときだ、耳元でねっとりと湿った囁き声が聞こえたのは。
「おや、君は確か?」
振り向くと、でっぷりと太った中年男が怪訝そうな顔でこちらをみている。記憶の片隅にある他人の名前を思い出そうとしているような、いかにもそんな表情だ。
その男は、亜奈の肩越しにチラリと美津夫をみて、ようやく納得した風にうなづいた。
「ああ、思い出した、よくここで高峰くんと待ち合わせしているよね、恋人?」
亜奈はそれに対する明確な答えを持っている。何も臆することなどない。
「いいえ、ただの幼なじみです」
「そうかね、それにしては、ほら、あれが気になっているみたいだし」
男が指した先には、美津夫と市谷がいる。何か仕事の話でもしているのだろうか、美津夫は少し険しい顔で、ひどくテキパキとした口調であろうことがピシッとのびた背筋からもうかがえた。
それに対する市谷の仕草はひどく優雅で、温和そうに緩めた眉根がいかにもおっとりとした口調を思わせる。
あまりにもお似合いだ。
そんなことは亜奈にもわかっているというのに、中年の男はわざわざ言葉にして穴の耳元で囁いた。
「すごくお似合いだよねえ、釣り合いが取れているっていうのかさぁ」
「そうですね、絵になりますね」
「高峰くんはどこかの旧家のお坊ちゃんだっけ?」
「一般家庭だって本人は言っていますけれど、まあ、お坊ちゃんですね」
「市谷の実家も地元の名士と呼ばれる家らしくてね、家柄としても申し分のない付き合いだと思わないかね?」
「だから?」
「そうだねえ、だから、君が高峰をどう思ってるかは知らないけれど、無駄な想いなんじゃないかなぁっていう、忠告さ」
男の視線が舐めるように亜奈の体を這った。頭の先からつま先まで。
「それにしても君は、可愛いよね、前々からお近づきになりたいと思ってたんだ」
うそだ。ねっとり嘗め回すような視線は亜奈の顔などひとつもみてはいない。ほどよく張り出してスーツの前に美しいふくらみを作る胸元ばかりに注がれているのだから。
「君だって子供じゃないんだしさあ、現実的な恋とかしたほうがいいんじゃないかなあ、例えば俺なんかさあ、ちゃんと本命の恋人がいるのに抱くための女をキープしておくような不誠実なことはしないよ」
「それって!」
「おお、顔色が変わったね、カマかけただけなのに……ふふふ、やっぱりそうか、セフレか」
もともと亜奈はウソをつくのに向いていない性質である。さらに狼狽したことは青ざめて唇をふるわせた表情からも明らかだった。
「おねがい、誰にも言わないで……」
「ふうん? それは君の誠意の見せ方次第なんじゃないのかなあ?」
「誠意……」
「こんどさ、いっぺん誰にも内緒で会おうよ。そのときゆっくりと、ね」
意味深に囁く男の顔がゆっくりと近づいてくる。まるで他の誰の視線からも亜奈の姿を隠してしまおうとするように。
そして、キスをねだるかのように。
「ちょ、ちょっと! こんなところで何をする気ですか!」
「いや、約束の標にさ、味見ぐらいさせてよ」
男の唇を裂けようと、亜奈は大きく身を引いた。男の顔と、亜奈との間にわずかな空間があいた。
そこへぬっとさしこまれたのは、スーツの袖口もまぶしい腕だ。続いて、亜奈の目の前にすべりこんでくる、彼の背中。
「何してるんですか」
怒りでわずかに震える彼の声……自分を守るように立つ美津夫の存在に安心して、亜奈は大理石の壁に背中を押し付けた。
そうしなければ立っていられない、それほどに膝が震えているのを誰かに気づかれたりはしないだろうか。それだけが心配だった。
だから両腕を組んで、少し強気な声を出す。
「ミツくん、どいて」
「え、でも……」
「大丈夫、話をしていただけよ」
美津夫がしぶしぶ体をどけると、亜奈は中年男をきっと見据えて言った。
「そのお話、前向きに検討させていただきます。そちらも例の件、ご配慮ください」
中年男にも、ビジネス風を装おうとする亜奈の気持ちを汲む程度の能力はあったようだ。
「では、おってご連絡差し上げますので」
軽く頭を下げるとその場を後にした。
残された亜奈は、いまだに壁にもたれかかったままだ。
「ほ、ほらね、大丈夫でしょう?」
美津夫はそんな亜奈の腕を掴んで、細い体を自分の胸元に引き寄せた。
「な、なにするのよ、こんなところで!」
「大丈夫なら、どうしてそんなに震えているんだ?」
「別に震えてなんかいないし、それにこれ、みられたら困るでしょ!」
素早くあたりを見回すが、市谷の姿はもうない。こちらを振り返ってみていル物はいるが、短い昼休みのうちに食事を済ませなくてはならない企業戦士ばかり、誰も足を止めようとはしない。
それに、美津夫が亜奈の耳元でそっと囁く。
「大丈夫だ、困ることなんかないよ。小さいころ、亜奈ちゃんが怒られてうちに来るたび、こうやって泣かせてやっただろ、あれと同じだよ」
「そう、幼なじみゆえの行為というやつね」
「だから、強がらなくていい、なにが怖かったの?」
そういわれて冷静になれば、何も怖いことなどなかったように思える。
確かに脂の浮くような太った男は亜奈の好みではなかったし、いわゆる『キモブサ』の類ではあったが、ただそれだけだ。危害を加えられたわけではない。
膝が立たないほどに震えている理由は、もっと他にある。
「ミツくん……私はね、あなたに迷惑をかけたくない」
「うん? 迷惑くらい、いくらでもかけてくれてかまわない。そのためにそばにいるんだからな」
「いやよ、迷惑だって度をすぎれば腹が立つでしょう? 私はね、ずるいけれど、あなたに恨まれたくないの。せめて幼なじみとしては良好な関係でいたいの」
「わかった。どんなことがあろうと、幼なじみとして良好な関係でいることを約束するよ。だから教えて、あいつに何をされた?」
「大丈夫、何もされていない、何も……」
「じゃあ、なんの話をしていたんだよ?」
「ちょっとした仕事の話よ」
「仕事の? 何であいつと、仕事?」
「ミツくんだって、自分の関わっている仕事の話を全部私にできるわけじゃないでしょ、いろんな秘密ごとがあるのがお仕事ってものじゃないの?」
「ああ、うん、確かに……」
「だから、ね、心配しないで。これ、武者ぶるいってやつなの」
「そうか?」
「いいから、もうちょっとだけ強く……抱きしめて……」
「わかったよ……」
彼の腕の中で安堵のため息をついて、亜奈はそっと目を閉じた。
「ミツくん……」
「うん?」
「ううん、呼んだだけ」
寄り添いあう二人を邪魔する者はいない。誰もが足早に通り過ぎるオフィス街の片隅での出来事であった。
そのころ、市谷がどうしていたのかというと……実は二人からさほど離れていない柱の陰に隠れていたりする。
「あああ! なにあれ、なにあれですの!」
スマホを向けて盛んに撮影しているのは、雑踏の中で静かに抱き合う美津夫と亜奈の姿である。
「もう、たまんないですわ、なにあのバカップル! おっさんサマ、グッジョブですわ!」
ひとしきり撮影を終えて満足したのだろうか、亜奈にキモ絡みした中年男への感謝をつぶやきつつ、スマホをしまう。
「さてと、でもあのおっさんサマにはちょ~っとお灸をすえた方がよさそうですわね。お父様におねだりして、SP呼んじゃお」
うれしそうにぴょこんとひとつだけステップを踏んで、彼女もまた、昼食をとるために都会の雑踏の中へと踏み出したのだった。