海老蟹の夏休み
 普通に受け取った朋絵だが、思わず落としそうになる。
 ずしりと重いそれは、勉強道具が詰め込まれた彼女のバッグだった。

 ザリガニ釣りに夢中になって、知らないうちに肩から下ろしていたのだ。
 これを持って外出したら、家に帰るまで片時も離すことのない大切なバッグだったのに。

(信じられない……)

 木の根元に放り出し、今の今まですっかり忘れていたなんて。

「受験生?」
 バッグの角ばった形とか、重みとか、カタカタと鳴る筆記用具の音で、勉強道具とわかったのだろう。朋絵は顔を強張らせながら、素直に頷く。
 沢木はそれ以上追及せず、再び池を回り始める。朋絵は自然について歩いた。

 白衣の背中が、夕焼け色に染め上げられる。
 それだけではない。水族館の建物も、林も、見回せば何もかもが真っ赤で、今の朋絵にとってはまったくのザリガニ色だった。ザリガニで頭も心もいっぱいになっていることを、ようやく実感する。


 三日月の腰の辺りまでいくと、沢木はふいに腕を上げ、林の奥を指差した。
「……何ですか?」
 建物とは反対方向で、数メートル先は崖に落ち込む樹林しかないはず。

 山に住む動物か、珍しい昆虫か、それともきれいな花でも咲いているのか。沢木は何かを発見した様子なのに、ひと言も発さず、微動だにしない。

 朋絵は遠慮がちに彼に並ぶと、指差すほうを一緒に眺めた。

「あ……」

 家々の屋根、蛇行する川、鉄橋、行き交う車――
 木々を透かして見渡せるのは、夕陽に照らされ、赤一色に染まる麓の街。

 何度もここに来ているはずの朋絵が、初めて目にする景色だった。

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