海老蟹の夏休み
「特別に教えてやろう。知られざるビューポイントだ」

 つまり、普段は隠されている景色なのだ。
 ほんの短い時間帯のみ、夕陽に赤々と照らされた街が、木々の間に浮かび上がる。
 こんな情景があるなんて、教えてもらわなければ、一生気が付かないだろう。

 この日、この時、この場所で……そして、この人がいなければ。

(こういうの、なんて言うんだっけ)
 思い出そうとしながら、朋絵は目の裏が熱くなるのを覚える。
 こんなこと、予想も想像もできず、対応もできない。

「ありがとうございます……感激です」
 朋絵が震え声で言うと、彼はちらりとこちらを窺う。白衣のポケットをごそごそと探り、彼が取り出したのはチェック柄の大判ハンカチ。

「拭きなさい」
「すっ、すみません……」
 朋絵は頭を下げてからハンカチを受け取り、瞼と鼻に押し当てた。

 いい匂いもしないが、へんな匂いもしない。
 素っ気ないけどやさしい肌触りに、なぜかどんどん涙が溢れて、押さえてもこすっても止まらない。

(なんで、どうして?)

「すみません……私、なんだか……」
「いや」
 感情の乱れに朋絵自身が戸惑うが、沢木は落ち着いたもの。
 まるで、こうなるとわかっていたかのようだ。

 子どもを見守る大人だと思う。だから、朋絵は子どもになってしまうのか。

 涙を止めようとけんめいに努力したが、駄目だった。
 まったく、わけがわからない。
 ただ、これまで気付かなかった景色を、目にしただけなのに。

 感情をコントロールできず、堰を切ったように涙を流し、何年ぶりかで声を上げ泣いていた。
 心の昂るまま、我慢しないで思い切り、自分を投げ出して。

 あの頃のように、池も林も、街も山も、空も大地も、すべて彼女の世界だった。

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