海老蟹の夏休み
「昭和の建物だからな。リニューアルの時期かもしれん」
「えっ?」
怒られると思って身構えたのに、男の発した声はじつに冷静で、非難めいた響きはなかった。
「うむ、確かにオンボロだ」
男は朋絵から視線を外すと、おそらく彼の勤め先であろう建物へと靴先を向けた。今のはとても客観的な呟きであり、すたすたと歩く調子も平静そのもの。
強い感情をぶつけるでもない淡々としたその態度は、かえって朋絵に罪悪感を持たせた。
「あっ、待って下さい!」
慌てて追いかけると、自動ドアの向こうに消えようとする背中に頭を下げた。
「すみませんでした。子どもの頃見た時は、もっと大きくて立派な建物だった気がして、失礼なことを言ってしまいました」
それは、水族館への詫びでもあった。あんなに楽しい夏休みをくれた場所に失望した自分が、身勝手に思えたのだ。声が少し震えている。
男は立ち止まらず、がたついた音をたてて開いたドアの向こうへ、無言で進んだ。
(ああ、やっぱり怒ってる)
閉じられたガラスの前、冷たくシャットアウトされた気持ちだった。
「残念だけど今日はもう帰らなくちゃ……」
朋絵はがっくりとうな垂れる。
どうしてこんなことになってしまったのか。思いつきで穂菜山まで来た自分を恨んだ。
自分自身で、輝かしい思い出を台無しにしてしまった――
しかし、ドアはもう一度開いた。
そして、なぜかそこには男が立っていて、さっきと同じように白衣のポケットに手を突っ込み、やはり淡々とした口調で言ったのだ。
「ボロだけど冷房はきいてるからね、涼んでいきなさい」
「……」
朋絵が返事もできないでいると、男は白衣の裾をひるがえして背中を向ける。
そして、親子連れで賑わうロビーをさっさと抜けて、奥へ消えてしまった。
「えっ?」
怒られると思って身構えたのに、男の発した声はじつに冷静で、非難めいた響きはなかった。
「うむ、確かにオンボロだ」
男は朋絵から視線を外すと、おそらく彼の勤め先であろう建物へと靴先を向けた。今のはとても客観的な呟きであり、すたすたと歩く調子も平静そのもの。
強い感情をぶつけるでもない淡々としたその態度は、かえって朋絵に罪悪感を持たせた。
「あっ、待って下さい!」
慌てて追いかけると、自動ドアの向こうに消えようとする背中に頭を下げた。
「すみませんでした。子どもの頃見た時は、もっと大きくて立派な建物だった気がして、失礼なことを言ってしまいました」
それは、水族館への詫びでもあった。あんなに楽しい夏休みをくれた場所に失望した自分が、身勝手に思えたのだ。声が少し震えている。
男は立ち止まらず、がたついた音をたてて開いたドアの向こうへ、無言で進んだ。
(ああ、やっぱり怒ってる)
閉じられたガラスの前、冷たくシャットアウトされた気持ちだった。
「残念だけど今日はもう帰らなくちゃ……」
朋絵はがっくりとうな垂れる。
どうしてこんなことになってしまったのか。思いつきで穂菜山まで来た自分を恨んだ。
自分自身で、輝かしい思い出を台無しにしてしまった――
しかし、ドアはもう一度開いた。
そして、なぜかそこには男が立っていて、さっきと同じように白衣のポケットに手を突っ込み、やはり淡々とした口調で言ったのだ。
「ボロだけど冷房はきいてるからね、涼んでいきなさい」
「……」
朋絵が返事もできないでいると、男は白衣の裾をひるがえして背中を向ける。
そして、親子連れで賑わうロビーをさっさと抜けて、奥へ消えてしまった。