月が綺麗ですね。
―――記憶もないような頃から、当たり前にあった存在が消えるという感覚を知った、10才の夏。
私が8才の時に発病していることが分かって、それでも治ると信じ続けていた。
最期まで、何度も何度も心臓マッサージを繰り返して、誰もが生きてほしいと願った。
『お前が成長する姿を見られないのが、心残りだよ…環那、強くなれ。でもそれ以上に幸せになれ。そして母さんを守ってやってくれ。頼む、環那』
心肺停止になるほんの数分前、お父さんは穏やかに言っていた。
私はその時、首を振った気がする。
きっと別れの言葉だと分かったから、受け入れたくなかったんだと思う。
お父さんは、皆に看取られながら、この世を去った。
一筋の涙を残して。
その後のお母さんは、今まで見たことのない、泣き顔だった。
いつも強く明るく、闘病生活を支えてきた母は、きっと決めていたんだと思う。
泣くのは、全部終わってから、と。
幼い私と、病に侵された愛する人を抱えて、必死に闘ってくれた母にも、感謝していた。
それから、私と母の二人三脚の日々が始まった。
何度も、お父さんが居てくれたらと思うことがあった。
でも、お父さんの分までお母さんは、私を愛してくれた。
たくさんの愛情を注いでくれた。
自分だって辛いはずなのに。
それでも、そのおかげで私はここまで育ってこれた。
いつか私も、溢れるような愛を返したい。
感謝を伝えたい。
そう呑気に思っていた。
それももう、伝えられない。
14歳の夏、私は母を失った。
またガンだった。
同じ病気が、私から両親を奪った。
手の平でどんなに掬っても、零れ落ちる水のように、2人の命は呆気なく消えた。
もう涙も出ないほど心は枯れて、光を失った瞳は空虚を見つめるだけになった。
この頃どうやって生活していたか、まともに記憶がない。
そんな私を引き取ってくれたのは、母の妹、雪絵さんだった。
雪絵さんは、何と言うか奔放な人で、恋人もなく、家庭もなかった。
35になる今も、それは変わらない。
雪絵さんは、全然笑わない私に、今までと同じように接してくれた。
朝は朝ごはんを一緒に食べて、元気よく送り出してくれた。
帰りは流石に、そんなに早くはなかったけれど、おかえりなさいと出迎えれば、笑顔でただいまと返してくれた。
与えられる当たり前の幸せに、どこか罪悪感を感じながらも、私の世界は少しずつ色を取り戻していった。
そして私は、高校生になった。
その頃、少しずつ雪絵さんの様子が変わったことに気づいた。
優しいのは変わらない、たまに甘やかしてくるところも。
でも、たまに遅く帰ってくることがあった。
なんとなく予想は付いていたし、そうだったら喜ばしいことだと思っていた。
そんなある日、雪絵さんがある人を連れてきた。