あしたのうた
「────やっと、っ」
「やっと、伝えられた」
視線を合わせてくる渉を私も見つめ返しながら、流れる涙はそのままに。そっと、優しく笑う彼が私の頬に触れて、雫を一粒掬い上げる。
ずっとずっと、ずっと昔から。
彼が、好きよりも愛してるよりも、もっと上の、当たり前の存在で。私が、彼女がいるなら彼がいる。彼がいるなら彼女がいる。恋でも愛でもなんでもない、それはただの事実。二人が揃えば、お互いがお互いを想っているなんて、そんな陳腐な在り来たりな言い方では言い表せない程に、互いの存在が『当たり前』という『事実』。
最初から、そういう関係にあった。彼と彼女は。大海人皇子と、額田王は。ただ本当に、条件が、状況が悪くて。彼と私は、離れ離れになるしかなかった。
あかねさす、紫草の。二つのうたは、離れてから数年経って漸く再会できた時のうただ。
もう関係のないように、戯れに詠ったとされるうた。その本心は、どうしても伝えたい気持ちは、必死に押し隠して、隠し切れずにうたに込めて。彼なら分かってくれる、気付いてくれると信じて、返ってきたうたに、私がどれだけ内心で喜んだことか。
────紫草の生えた野を、あっちに行ったりこっちに行ったりしながらそんなことをなさって。野の番人に見られてしまうではないですか、あなたが私に袖を振るのを
────紫草の紫色のように美しいあなたのことを憎いと思っているとしたら、どうして私はあなたのことをこんなにも恋しく思うのでしょうか。あなたは恋をしてはいけない人妻だというのに
お互いにだけ、本心が伝わればよかった。周りがどう思おうと、どう捉えようと、額田王と大海人皇子だけが分かっていれば、それでよかった。
その場にいた、中大兄皇子────つまりは大海人皇子の兄で、当時は既に天智天皇だったか。あの人は、分かっていたと思うけれど。
だからこそ、事実は変えられる。本心を知りつつ、精一杯に嘘を吐いて偽って、互いの本当の気持ちに視線を逸らして必死になっている当時の妻であり想い人と、仲の良かった自分の弟の為に、中大兄皇子は。二人が必死で繕った通りに、上手く歌を広めてくれた。
下手に隠すよりも、大衆に広めてしまった方が、嘘というのは暴かれにくい。それを知って、中大兄皇子は自分の想い人でもあるのに、便宜を図ってくれていた。
「……感謝、しなきゃね」
「そう、だよ」
全て思い出した今となっては、感謝の念しか抱けない。
確かに私は、あの人のせいで彼と離れ離れにならなければいけなくなった。けれど、あの人はそれを悔いていてくれた。迂闊なことを口にした、と。それを聞かれてしまったが故の、悲劇。