あしたのうた


知っているひとが、分かっているひとが、いない、とは言わない。人数こそ少ないにしろ、ゼロではないのだろう。信用ならない記憶というセカイの中で、様々な、あしたが確実ではないということを体験してきたひとが、いないわけではない。


交通事故。自然災害。殺人事件。


そのどれもが突発的で偶発的なもので、現代ではいつ起きるのかなど予測することは不可能で、そしてそれによって命を落としているひとたちは、決して少ないとは言い切れない人数がいる。その家族が友人が彼氏彼女が、突然大切な存在を失った時。そこで漸く、あしたが確実ではないものだということを実感するのだろう。


その存在を喪ってから、どれだけ大切なものだったのかということに気付くのだろう。日常というものがどれだけかけがえのないものなのかということに、非日常を体験してから知るのだろう。


日常とは、非日常が存在してこそ成立するものだ。日常があるからには非日常が存在するし、非日常が存在するからこそ日常が存在する。


そのどちらか。どちらもが同時に存在することはなく、どちらも存在しないということもない。


そうして、日常は簡単に非日常になるし、非日常も簡単に日常に成り代わる。


簡単だ。どちらかに代わることなんて。ずっとその状態であり続ければ、最初は非日常だったことであろうとも気付けば日常に代わっていく。


例えばいじめや。例えば虐待や。例えばDVや。


けれど、逆のパターンだってあるだろう。


ずっといじめられていたひとがいじめられなくなった。ずっと虐待を受けていたひとが虐待から解放された。ずっとDVに苦しんでいたひとが相手と別れた。


何もなかったのに悪い方に向かうことだけが何も日常から非日常に、そうしていつしか日常になるなんてことはない。ずっと悪い立場にいた人がそれらから解放された時だって、悪い立場にいたのがそのひとの日常だったわけだから、それがなくなるというのは本人にとっては非日常だろう。


記憶も過去も未来も、どれも信用ならないものだとは思っているけれど。


今持っている記憶を、歩んできた過去を、これから歩むであろう未来を、そのすべてを否定したいわけではない。


ただ。ただ、俺がどうしても考えてしまうだけであって。いつからか、物心着いた時には既に、持ち始めていた考えであって。


誰か大切なひとを亡くした記憶もなく、いじめも虐待もDVも、したこともされたことの無い人生だったけれど、ずっと考えてきたことがある。悩んできたことがある。


だから、また明日、が嫌いだった。


誰かのために生きる、という言葉が嫌いだった。


記憶も過去も未来も、どれも信用ならないものだと思っていた。


だって、俺は。────おれ、は。


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