あしたのうた
過去を思い出すことは必ずしも幸せな事ではないと。自分でも言っていたが、辛いことも苦しいこともたくさんあるのだと。それでもそれ以上の幸せがあると、そう信じるには、俺にはまだ歴が浅い。
だって、今目の前で文が泣いているのに。俺は何もできずに、思い出せない自分を責めて苦しむだけで。
何のために、前世を思い出したのだろう。
前世の俺は、聡太郎は。一体なにがしたいのだろう。
「……わた、る」
唐突に紡がれた名前は紛れもなくこの時代の俺のもので。なあに、と腕の中にいる紬に問いかけると、ぐい、と細い腕で胸を押された。
「……ごめん。取り乱して」
「気にしないで。箍外したのは俺だろうから」
「……うん。ありがとう、渉」
帰ろうか、と離れた温もりを繋ぎ止めるために手を差し出すと、おずおずと伸ばされた紬の手を、そっと握った。
ねえ、紬。俺、少しだけ嬉しかったよ。確かに前世を思い出す意味があるだとか、聡太郎は一体文に何をしたのかとか、分からないことはあるけれど、でも。
その苦しさを、辛さを。抱え込んで蓋をするのではなく、こうして曝け出してくれたことが。
疾風にひたすら冷たいと言われる俺が、こういう小さな幸せが、孰れ辛いことも苦しいことも越えていくのかもしれないと思ってしまうくらいには。
紬と知り合ってから、色々なことが変わってきている。
それは目に見えるものではなくて、心境の変化、考え方の変化と云った目に見えないもの。それでいて、それが行動に表れてきている節がある分、目に見えてきつつあるもの。
紬は。紬は、何か変わってきていることはあるのだろうか。
いつの間にか消えていた表通りの明かりと引き換えに、空は二人で見た星空が辺り一面に広がっていた。
「────秋立ちて、だね」
「空気、が?」
「そう。ちょっと肌寒いかもしれない」
「もう九時半過ぎてるし、この時期だともうそろそろ秋だもんね。来た時は暑かったし、汗が冷えてるのもあるんじゃないかな。風邪ひかないでね、紬」
「ん。気を付ける」
────秋立ちて 幾日もあらねば この寝ぬる 朝明の風は 手本寒しも
────秋になって何日もたっていないのに、この寝ての朝の風は手元に寒く感じられます。
紬との話では万葉集のうたの話ができるから楽しいなあと、聡太郎と文のことを抜きにして俺は思った。
まだ涙声が抜けない紬に、先程のことを忘れられるわけがない。けれど俺からしたら紬は紬で、初めて万葉集の深い話ができた相手だ。