あしたのうた
嗚呼、と口を両手で覆う。清吾さん、呼びかけると彼はきゅっと唇を引き結んだ。
「ごめん、まだ名前しか分からないんだ。川島、清吾。自分の名前だけしか思い出せてない。……名前、教えてくれませんか」
ふっと息を呑む。私の、名前。昔の、名前。────彼は、前世が『聡太郎』だけではないことに気付いている。
名乗るべきか、名乗らないべきか、一瞬の逡巡。それを振り払って、私は『私』の名前を、口に乗せた。
「あきこ。……飯田、晶子。清吾さん、」
思い、出して、とは。どうしても、口にできなかった。
あきこ、と口の中で私の名前を繰り返す彼が、ぱっと顔を上げる。晶子、今度ははっきりと紡がれた私の名前に、彼が思い出したということを、間違いなく知る。
嬉しいのに、素直に喜ぶことのできないのは、『清吾さん』と『晶子』の別れを思い出してしまうからだろうか。
きっと、すぐそこまで来ている。少しずつ思い出していく彼が全てを思い出すまで、そう時間はかからない。それまで夢しか見ていなかった彼がこうも早く記憶を取り戻し始めているのは他ならぬ私がいるからであって、それがいいことなのか悪いことなのか、私には見当がつかない。
ただ一つ、言えるのは。なんだかんだ言って、また彼と同じ日々を過ごせるのが嬉しいからだ。
例え誰かに、それが間違いだと言われようと。私は、何度だって、かみさまが悪戯をしてくれる限り、彼を。
「晶子」
久方ぶりに彼から呼ばれる自分の名前に、胸がきゅうっと締め付けられる感覚。初めてではないのに、いつだって同じような反応をしてしまう。
「清吾さん」
そっと、彼の名前を紡ぐと、彼はとても嬉しそうな顔をして。それからすぐに、その表情を曇らせた。
「遅くなって、」
「ごめん、なんて、言わないでくださいね」
「……待っていてくれて、ありがとう」
釘を刺すと、言葉を止めた彼が一拍置いて違う言葉を口にする。その言葉に柔らかく頷いて、この前聡太郎から言われた言葉を思い出す。
いつだって彼は、自分が後から思い出すとき、その記憶を取り戻す度私にありがとうと言う。待っていてくれてありがとうと、今のように。
だから私も、立場が逆の時は、そう言うようにしている。例えば『前回』、────つまり、私と渉が晶子と清吾だった時代の話。今から遡ること約六十年、まだ日本が戦争をしていた頃の話。
「清吾さんの話、する?」
そう提案すると、彼は戸惑ったような表情を見せた。困って笑うと、どうして、と彼が視線で私に訴えかけてくる。
どうして、と言われても、自分でも分からない。
前回が晶子と清吾だったということは、晶子と清吾の話を生まれ変わった姿でするのは、これが初めてだということで。