あしたのうた


だから、話したいとでも言うのだろうか。今までそんなこと、一度も言わなかったくせに。分からない。私には私が、分からない。


「……晶子」


怖がらないで、という言葉と同時に彼の手が降ってきて、目を閉じた私の頭を優しい体温がそっと撫でた。


するり、その手が私の手を掴む。立ち上がった彼に抵抗することなく私も立ち上がると、彼が支払いを済ませて店を出ていくその後に大人しく着いていく。俯いたままの私が分かるのはその会話と彼の足だけで、思考は別の方向に向いているせいか自分でも今の状況を上手く整理しきれていない。


分かるのは、彼が私を連れ出してどこかに行こうとしていることだけ。どこに行くのだとか、そもそも何があるのかを知っているのだとか。思わなくはなかったけれど、それよりも自分のことで精一杯だった。


話して、いいのだろうか。否それは私たちに任されているのだろう、とは思う。言ってはいけないとか言わなければいけないとか、そういう縛りがあるわけではない。


思っているとしたら、私と彼の暗黙の了解のような。思い出した片方が思い出していない片割れを待つ、というのは、いつの間にか定着した私たちのやり方だったから。


私だって、夢を見る。昔々の、夢を見る。


前世の夢。晶子だった頃の、文だった頃の、他の名前だった頃の夢を、見る。


「紬」


顔、上げて、と。柔らかい声で紡ぎ出された言葉に、私はそろそろと顔を上げた。


困ったような、優しい顔をして笑う彼が、この下降りよう、と河川敷を指さす。否定する理由もなく、ゆるやかな斜面を二人で降りると、丁度橋の下あたりで背中合わせに座り込んだ。


「……紬」


背中越しに、彼の声が響く。橋を作っているコンクリートが声を反響させて、小さい声なのに余韻が残る。


「……わ、たる?」


呼んだ名前は、この時代の彼の名前。渉だよ、と返された声の余韻に、縋りたくなる。渉、渉。名前を呼ばないと、何が何だか分からなくなってしまいそうで。


嗚呼。今の私は、きっといつもの私ではない。


「紬、大丈夫だよ。俺は渉で、紬は紬。晶子でも文でもない、村崎紬」

「……だ、よね。ごめん、なさい。私どうかして、」

「紬。ねえ、我慢しないで」


その声の芯の強さに、『清吾さん』を思い出して酷く泣きたくなった。


私は村崎紬で、彼は妹尾渉で。飯田晶子でも川島清吾でも、文でも聡太郎でも、ないのに。それでも重ねてしまう。どうしても重ねてしまう。


彼がいなくなったその日を。私がいなくなったその日を。


どうしても思い出して重ねて、もし渉が同じようにいなくなってしまったら、と。いくら平和になったとはいえ殺人事件も交通事故も当たり前にある世界で、いつあしたが訪れなくなるかなんて分からないのに。


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