あしたのうた
一人になって、疾風の言葉を思い返す。面と向かって言われた、あしたを信じてないだろという言葉。あしたを信じるのに理由なんているか、と問いかけた声。一方的に疾風の話を聞くだけだったけれど、それでも話が出来てよかったと思う。
あした、に対する考え方はきっと人それぞれで。中でも外れたところにいるのが、俺と紬で。疾風の考えは多分、普通の人たちに一番近い考え方をしている、否普通の人たちはまずこんなことを考えないのかもしれないけれど。
「『あした』が来るのが当たり前……かあ」
この時代では、その通りなのだろう。
今までの時代に、そんな当たり前なんて存在しなかった。でも、と考えてみれば、俺だってその前提の上で『あした』なんて信じられない、と突っぱねていたような気もする。
信じる、信じない、というのは、まずその対象をどのような形だとしても認識していなければ始まらない。その存在を知らなければ、信じようにも信じられないし、信じられないと言い切ることもできない。だから、『あした』が存在している、という前提で俺はきっと話をしていた。
紬は、それに気付いていただろうか。気付いていたような気もするし、気付いていなかった気もする。結局は紬も俺と同じだから、気付いていなかった方が可能性は高いかもしれない。
芝山さんも疾風と同じことを言いそうだな、と思いながら、そういえばと思いつく。この方法を取るつもりは毛頭ないが、これも一つの手段であることに違いはない。
紬に、疾風と芝山さん伝手で連絡を取ってもらうことも可能なのか。
それは最終手段、本当にどうしようもなくなった時にしようと決めて、曇りがちの暗くなった空を見上げる。ぶれた思考を元に戻し、考えるのは『あした』のこと。
『あした』は過去の証だと、疾風は言っていた。過ぎていく時間が、未来のある証だと。
どうして俺がそう考えたことがなかったのか、と思い返して、行きついたのは世界五分前仮説。これがあったから、記憶も過去も未来も信じられなくなっていた。だが、今では少し違う、気もしている。
確かに、世界五分前仮説にかかればこういう考えだって、さっきの疾風のとやり取りだって、かみさまに作り出された記憶、になってしまう。少し前までは、そんな記憶なんて頼りないものでとても信じられるものではないと思っていた、だが。
それでも、『記憶』は『記憶』だ。
俺と紬の過ごした時間も、疾風とじゃれあう時間も、兄貴と話し時間も、全て俺の持っている、記憶。疑うとか疑わないとかそういう問題ではなくて、そう、信じていればどんなことだって真実になる。
ちゃんと、俺だって信じたいとは思うようになっている。
それは、紛れもなく紬がいたから。彼女がいるから、俺は辛うじてこうしていつもこの世界にしがみついて、約束を通して『あした』を信じて、いつもは裏切られていたけれどこの時代ではどうだろうか。