あしたのうた
こうして先のことを考えること自体も、『あした』が『未来』が存在していることを信じているからだ。
自分が思っていたよりもあしたと云うものは身近だったことに気付かされる。あした、だけではなく、過去も記憶も。当然未来だって。こうもあっさりだと、逆に気後れしてしまうよう感覚もあるが、今まで信じられなかったツケだとでも思っておこう。
ホームに滑り込んできた電車に乗り込んで、空いている車内で端の席を陣取る。そういえば、もう少しでテスト期間になる。帰ったらテスト範囲を確認しなればならない、その前にもう一度紬に連絡を取ってみようか。
ダメ元でいいから、こちらから連絡を入れておくだけで少しでも違うといいと思った。
どうして紬と連絡が取れないのかは、未だに見当がつかない。それでもいくつか考えられる原因のうち、もし紬が何か『記憶』に関することを思い出したのだとしたら、一人で抱え込ませるようなことはしたくない。
確かに、俺が分かることは少ない。紬に比べてしまえば。まだ思い出せていない記憶だって、確実にある。
それでも、辻褄が合わない。
ルールがあったはずだ。どちらかが記憶を全て持ったまま成長して、もう一人は途中で思い出す。この時代では前者は紬で、後者が俺。だとすると、紬は全ての記憶があるはずだった。新しく思い出すことなんて、ないはずなのだ。
気になるのはやはり、兄貴のこと。あの日のイレギュラーは、兄貴だけ。だがそれ以外の手掛かりはなし、────強いて、言うのなら。
あの日、あの河原で、幾つかのうたを詠い合ったことを思い出した。
「────君待つと、我が恋ひをれば、我が宿の、簾動かし、秋の風吹く」
────あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る
────紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも
共通点は、ある。額田王と、中大兄皇子、大海人皇子の三人。
君待つと、は額田王が中大兄皇子を想って詠ったとされているうた。あかねさす、は額田王が中大兄皇子に嫁いだ後に大海人皇子に贈ったうたで、紫草の、はそんな額田王への大海人皇子からの返歌。
分かるのは、それくらい。そしてこのうたを口にした理由を、紬は言葉にできないと言って教えてくれなかった。否、教えられなかったのだろうが。
思い返せば、これが唯一にして最大のヒント、になるだろう。
あの時、もう少し突っ込んで聞いていなかったことを今更後悔した。言葉にできなくても、もう少しでも訊き出せていたら何か手がかりになったかもしれないのに。
「……わかんない、なあ」
額田王に、思い入れなんてあっただろうか。否あるか。あかねさす、と紫草の、のうたは、少なくとも俺にも関係している。